結びの祈り

 結論

 以上述べたことで小烏の神の救いは明らかとなった。これが神の思し召しに従っていく惟神の道、烏我一如の道である。第五章で論じたように、ヒンドゥー教のウパニシャッドの哲学に梵我一如という言葉があるが、それをもじって梵を烏に、ブラフマンを五烏大明神にしたまでである。先の真如苑の経典は『一如の道』という。二重の意味でかけているのである。神に我を一如していく。五烏大明神と我々の仏性は一体である。真如苑流にいうならば、「真如」に自己を一如していく。この愚かで浅ましい「俺様」「女王様」ではなく、清らかで純粋なまどかなる心を一如していくのである。自己のわがままを退けて、神の聖なる御心に従っていく。そこに神は救いの御手を差し伸べられるのである。

 五章にわたって論じたが、「思し召し信仰」によって忍耐と希望を、「神の頷き信仰」によって慈愛と命綱を、「畏れ慎む信仰」によって戒めと赦しを説き、まずこの三本足の鼎によってミゼラブルを救えたなら幸いであり、それが果たせたなら、すでに本書の役目は終えていると言っても過言ではない。これらは三本の矢であり、一本目で苦難から、二本目で孤独から、三本目で罪業からの救済を目指している。次に、「五烏神義論」によって人間と世界の理解を、「烏我一如の道」によって一般層・知識層に向けての積極的な論考を説き終わった。わたしは以上の五色で彩られた教えによって、厳島の女神のごとく、衆生済度の大願を成就したと言えるであろうか。そして何より、小烏の神の御誓願の真理性を証明できたであろうか。読者を苦難から救えたなら幸いであり、何よりの神の思し召しであることは言うまでもない。

 さまざまな論が錯綜したが、わたしが言いたいのは畢竟、「おぼしめし」という一言に尽きる。これさえ感得すれば及第点であり、もう心配はいらない。こうしたことは心理学では「受容」というであろうが、我々が目指すところのものは、空虚なあきらめではなく、もっと喜ばしい忍耐と感謝に即した法悦ともいうべき境地である。あなたが確固たる不動心、金剛不壊の心を手に入れてほしい。すでにここまで達している方々には「釈迦に説法」であった。本書は啓蒙書であり、その内容がいささか高踏的と思われたら申し訳ない。もとよりわたしも修行中の身である。この人生という道場において。わたしも油断して、この信念がかりそめのものとならないよう気をつけていきたい。

 四章におけるゾロアスター教的な二元論と、五章で述べた汎神論、あるいは一元論は矛盾するものであるかもしれない。世界の真実はどうあれ、ただ確信できることは、小烏の神の御心は衆生済度、すなわち慈悲や愛であるということである。それは垂迹して顕れた神の臨終の御誓願で確定していることである。神は自らが死の間際で苦しみの中にあるにもかかわらず、我々衆生の幸福を願っておられるのである。そこにわたしは弁神論や神義論を考えるまでもないことに気付かされるわけであり、確固たる信仰を持つことができるのである。五烏教のこの部分は浄土教のような他力信仰であり、絶対他力で神は摂取不捨である。神が我々衆生を常に守護されているから、どうか安心されたい。

 小烏の神の御力は、死(喪失)・病・罪・苦難・孤独という五つの苦しみから救うものである。どれも我々儚き人間にとっては命さえもかかった耐えがたき根本問題である。しかれども、それは転じて、生(再会)・健康・ゆるし・希望・愛というものに思し召しによって変わる。合わせて五福である。まさに一石二鳥ならぬ一石五鳥の利益がある。わたしたちは真摯な信仰を持つことによって、これらの五苦から五つの幸せを得ることができる。それに至るためには、三章にわたって述べた三本足の信仰と、五章にて述べた烏我一如の道を歩んでいかねばならない。それは一章で述べたように、神の試みや愛の鞭、また魔王による災いに遭うこともあろうが、ただ思し召しを信じて、「この苦難は必ず我を益す」という希望の信念のもとで耐え抜いた先に、こよなき浄福、あるいは涅槃ともいうべき境地が開かれるのである。どんな受難の人生でも希望の光は差し込むのであるから、我々の未来は明るい。この五色の風ともいうべき教えによって、我々は神のもとで生きながらにして新しくよみがえり、神のうちに住するという全き境地、すなわち烏住して無敵の人となって、それこそ神の国を内にも外にも建設していくのである。

 「烏我一如の道」は決して容易いものではない。それは苦難の道であり、茨の道であり、まことに険しいものである。けれども、神の手助けを借りて、その道を乗り越えていくこと、乗り越えていった先にこそ、本当の幸福というものが待っているのである。三本足の信仰という五烏の甲冑を身に纏い、この「五烏ジハード」を戦い抜いていってほしい。いつの日か神の斎庭にて遊ぶときまで、よくよく精進されたい。

 わたしは友人に「小烏愛」がすごいとよく言われる。もちろん自認するところである。小烏はわたしにとって、救済であると同時に矜持でもあり、何重の意味でも存在理由なのである。

 本書を書き終えたことによって、少しでも世間のひきこもりや障害者、低学歴者や貧困層など、あらゆる社会的弱者に対する差別や偏見、排斥、迫害がなくなればと祈るばかりである。たといミゼラブルでも、これだけのことは書けるのであるから。本書はある意味ジンジャーエールである。神社からのあなたへのエールであるから。同名のひらがなの『じんじゃーえーる』という漫画があったのを思い出す。

 願わくは、わたしが「医者の不養生」、「論語読みの論語知らず」にならないように。

孔子「君子は言に訥にして、行いに敏ならんことを欲す。」

「沈黙は金、雄弁は銀」という。日本人は控えめで自己主張しないことが美徳とされている。ただし、どうしても言葉でしか伝えられないことがある。それを本書において論じた。

 エリアーデは神道について述べている。

「すなわち、「神々を崇敬せよ。清浄の掟を守れ」である。~それは、「正直で、率直であれ」という意味である。これが、その付属物をとり去った神道宗教のすべてである。これは古い宗教的真理であり、言葉数は少ないが、おそらく過小に評価するべきではない。」

 哲学者はいう、人生そのものが祭祀なのである、と。また「人生は宗教そのものであるともいえようが、それは常に、自己が真に自己自身になるという仕方においてである。」と。

 さらにエリアーデも呼応する。

「文化の最古の諸層においては、人間として生きることは、それ自身において宗教的行為である。~言いかえれば、人間であること、というよりはむしろ人間になることは「宗教的」であることを意味する。」

 我々の人生というのは、真心を持って生きるのならば、年中いつでもお祭りなのである。

 わたしの運命の漫画『ローゼンメイデン』より。

真紅「そう、世界はいつだって目に見えない選択肢で満ちている。気付こうとさえすれば誰の手にも無限に。世界は選び取れるのだわ。」

 さらに、ひきこもりの少年がいう。

ジュン「僕が僕の意志で、僕の力で変えてやるんだ。」

 この言葉の通り、わたしは人生を、世界を変えることができたであろうか。

 仏教聖典より。

「この教えの通りに行わない者は、わたしに会っていながらわたしに会わず、わたしと一緒にいながらわたしから遠く離れている。また、この教えの通りに行う者は、たとえわたしから遠く離れていてもわたしと一緒にいる。」

 マタイによる福音書より。

「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。」

 いかに世の中は「砂上の楼閣」が多いことであろうか。小烏の神が言われているように、盛者必衰であり、今は栄えていてもやがては滅びるものである。

 死にゆく神、苦悩する神である小烏の神のご遺言は、「わたしの魂は中有に留まり、あなたがたの命根長養と五臓安寧の守護神となろう。」というものであるが、世界の神や仏、賢者たちもそれぞれ遺言を残している。

 たとえば、上座部の涅槃経のブッダの遺言は、「怠ることなく、修行を完成しなさい」である。

 大乗の涅槃経のブッダの遺言は、「すべての善男善女よ、自ら心を修め、慎んで、怠ることがあってはならない。」

 キリストの十字架での遺言は前述の通り、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」である。

 ソクラテスの自害する前の遺言は、「ぼくたちはぼくが語ったように行動しよう。神がそちらに導いてくださるのだから。」

 わたしの大切な人の遺言は、「わたしがいなくなっても強く生きて」である。

 誰しも各々の涅槃経、それぞれのご遺言があるものである。論語では「鳥の将に死なんとするや、その鳴くこと哀し。人の将に死なんとするや、その言うこと善し」という。人は臨終に己が罪を悔い、純粋な気持ちで死んでいくことが多い。ましてや、神の将に死なんとするや、その宣うこと有難しである。

 神の御誓願は三重構造を持つ。すなわち、漸進的に病が除かれていくという歴史的側面、次に病にある者と共にあり希望を持たせるという闘病的側面、そして、そもそも真の自己に病は存しないという霊的側面である。

 わたしの家族について一言述べる。

『青の祓魔師』という宗教的な漫画があるのだが、その物語の中で奥村獅郎と神木玉藻は息子と娘を助けるために自ら命を投げ出した。彼らと母が重なって見えた。なぜなら、母が倒れたとき、気遣ったのは自分ではなく息子であるわたしだったからである。母は倒れたとき、自分のことよりもわたしを気遣い、「死んじゃいけん、生きてよ」と言ったから。祖父のことも明記しておく。夏の暑い日に、汲み取りの便所から糞尿を汲んで、両肩に肥たごを担いでいる姿が忘れられない。兼業農家で働き者、何の不平不満も言わず、家族のために尽くした仏のような人であった。自分がいくら学問を積んでも、絶対に祖父は超えられないと知っている。わたしもいつかこのような人たちになりたい。言葉でなくとも、行いによって人は遺言が残せるものである。最後に残るのはこのような輝けるものである。

 さて、五烏神学について、主として思し召し信仰について、もはやすべては説き終わった。今後はあなた自身の心がけ如何にかかっている。わたしができることは、以上の論説によって微力ながら手助けすることにとどまっている。あとは小烏の神ご自身が、あなたに救いの御手を差し伸べられることを祈る。いや神はそうなさらないことは決してない。手を伸ばさないのは、また手を離すのは、常に我々自身の方であるのだから。あなたは、その力強い御手をしっかりと握りしめて離さないことである。

 神はあなたを見捨てはしない。なぜなら、神は臨終に我々の守護神となると誓われたからである。たとえば、阿弥陀如来の本願が実現して、すでに多くの人々を浄土に迎えているように。イエス・キリストが約束通り、十字架の恩寵で人類の罪を贖ったように。そのように、小烏の神の誓願はむなしいものではなく、真理であり、現実に今も我々を守護されている。それゆえ、神はあなたを必ず救われる。

 結論としては、神はあなたを決して見捨てず、必ず救われるということである。神のお誓いは決して破られることはない。我々はそれをよりどころとして、固く信じて生き抜いていくのみである。

 小烏の神は、必ずあなたを赦される。癒される。守られる。清められる。強められる。救われることは決定している。

 

 結びの祈り

 序論において、救済とは神への信仰に尽きると述べましたが、五烏教においてそれは、五烏大明神の御誓願、ご遺言を固く信じてよりどころとすることにほかなりません。儚い人間の言葉は諸行無常であり、移り変わりやすくよりどころとするには頼りないものです。しかれども、神仏の御言葉、思し召しというものは常住であり永遠です。時の経過によってこぼたれるものではなく、普遍性のあるものです。わたしたちはそれを信じるというより「知る」のです。不確かなことは信じることであり、確かなことは知ることです。不確かだから信仰と呼ばれ、確かだから知識と呼ばれるのです。わたしたちはそれを、もはや信じるのではなく、知っています。神の衆生済度の御心を。かくして、もはや一切の病は除かれました。どうか安心してください。

 キルケゴールは言います。

「信ずるということの意味は、わたしが探し求めているものはいまだここにないものであり、いまだここにないからこそわたしはこれを信ずる、ということに外ならない。」

 平家物語において、船上の扇を射る際に那須与一がこう祈願しています。

「南無八幡大菩薩、我が生国の日光権現、宇都宮那須湯泉大明神、願わくは、あの扇の真中を射させ給え。もし射損ずることあらば、生きて再び故郷に帰る事もできませぬ。何卒お力を与え給え。」

 このごとく、わたしはあなたに祈りの矢を放ちますが、本書において論じたことで、救われるか救われないかは他ならぬあなた自身にかかっています。おこがましくもわたしが救うのではありません。あなた自身の持っている生命力、霊力で自分自身を救うのです。ひとたび教団や組織を作れば、途端に世俗的なものに堕してしまいます。あなたはただ真理を見ればいいのです。

 わたしが引きこもっていたときに、母と『ロード・オブ・ザ・リング』という映画をよく観ていました。その中でガンダルフという旅の仲間の指導的存在がいるのですが、主人公フロドがうろたえていたとき、「大事なのは、これからどうするかじゃ」と励ましていたのを思い出します。過ぎ去ったことはもう仕方のないことです。あなたはこれからのこと、そして今を考えてほしいと思います。英雄アラゴルンのごとく、愛に基づいた勇気ある行動が人を感動させます。指輪の誘惑に負けず、フロドを守るために、たった一人でオークどもの大軍に立ち向かっていった姿が忘れられない。そして、誘惑に負けても、潔く立ち直って勇敢にホビットたちを守って死んだあのボロミアのことも。彼らのようになれるよう、わたしと一緒に切磋琢磨して歩んでいけたらと思う次第です。

 長きにわたって理論理屈を述べましたが、小烏の真の魅力は実際に神社に来てみないとわからないでしょう。言葉で伝えられる部分もありますが、あなたが歩みを運んでその霊気に触れ、体感することで初めてわかる部分があります。小烏の救いは言葉によらず、その聖域をもって浴せられるところがあります。果てしなく続く階段を、ただひたすら登っていき、境内まで着いて参拝し、奥の杜でひとりたたずむ。差し込む木漏れ日、木々のゆらめき、小鳥たちのさえずり、あったかいひだまりなどを見ていると本当に魂が浄化されるようです。実際にカラスも鳴きます。何時間でもいられます。滅多に人が来ないというところがまたいい。春から初夏にかけてはみずみずしい新緑を見せ、うぐいすが美しくも切ない声で高らかに鳴き、夏のたそがれにはひぐらしの物悲しい声が聴こえ、秋にはもみじが鮮やかに朱く染まり、冬には雪化粧のお社が見られるときもあります。まさに神即自然です。静寂の世界に身を置いて、自然の微かな動きを感じ取れる。はらはらと木の葉が舞い落ちていくのを見るだけで楽しめます。古びた鳥居、不思議な形をした木の根っこ、それらを見つめているだけでいい。五感で感じることでやっとわかるところがあります。そこにはお金をかけなくても楽しみがあります。何もない、けれどすべてが有る。無になれる。けれど心は満たされる。小烏はそんな場所です。小烏には一見何もありません。けれども心の眼で見ればすべてがあります。そのとき神は癒されるでしょう。あなたのその病から。

 このように、小烏の救いは言霊(ロゴス)によるものと、聖域または空間(トポス)によるもの、ふたつの領域があります。小烏の神は、あなたを言葉と自然によって、すなわち金胎両部の働きによって救われるでしょう。ロゴスとトポスという双方向からの力によって、傷ついた衆生(アンストポス)が救われるのです。金胎両部の働きによって衆生は立つことができ、それによって天地人の三本足の鼎立が実現されるのです。わたしが幼き日に見上げた小烏のトポスのあったかさと、長じてから読み解いた古文書の神のロゴスは完全に一致していたのです。

 初めの挨拶で、信仰の有無を問わず神仏は救いを垂れられていると言いましたが、トマス・アクィナスは信仰のある者には神はよりいっそう祝福されると述べています。

「~この意味においては神は、神によって創造されるあらゆる事物のうちに存在する。~そこで神は、この第二の仕方によっては、神を現実的に愛しあるいは習態的に愛している理性的被造物のうちに、特別の仕方で存在する。~この仕方によって神は、聖なる者たちのうちに、恩恵によって存在するといわれるのである。」

 このゆえに、わたしはあなたに信仰を持つことを強く勧めます。わたしはもはや信仰ではなく、渇仰しています。ヒンドゥー教でいうならば、信愛しています。

 なむこがらす。我らの病を癒したまえ。我らの罪を赦したまえ。我らの魂を暗黒から救い出し、汝の光明の御元まで導きたまえ。今こそ生きとし生けるものを救わんとする汝の誓願の契約を履行したまえ。果たされよ、誓願を果たされよ。

 以上をもって、五烏教の創始を宣言します。これは辺境からの中枢への挑戦です。わたしはどんな教団にも属さず、誰の駒にもなるつもりはありません。ただ神代から続くわが神の福音を伝えていくのみです。なむこがらす。

 わたしの最期が、ユゴーが描くバルジャンの臨終のようであることを望みます。

 バルジャンの銀の燭台は、わたしにとっては小烏の古文書にほかなりません。天上からわが神が、今のわたしをご覧になって満足されているだろうか。わたしは神の憐れみの生涯を全うできたであろうか。わたしの思いは、平家物語の壇ノ浦で最後まで勇ましく戦って散った平教経のようなものです。

 仏教聖典より。

「仏は彼岸に立って待っている。彼岸はさとりの世界であって、永久に貪りと瞋りと愚かさと苦しみと悩みとのない国である。そこには智慧の光だけが輝き、慈悲の雨だけが、しとしとと潤している。」

 ヨハネによる福音書より。

「わたしが与える水はけっして渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」

 彼ら、いわゆる「聖☆おにいさん」のもとへ行こうではありませんか。

 最後に、わたしの心の原郷である真乗の言葉で締めくくりたいと思います。これこそ思し召しです。

「ここで、私たち、耐え忍ぶということが、辛い、苦しいの暗い心より出づる”忍”ではなく、有り難い、勿体ないの感謝の心より出づる、明るい前向きの”忍”でなければならないことを理解するのである。これこそが、菩薩の実践すべき、六つの徳目である「六波羅蜜」の一つ、忍辱波羅蜜を修することに通じていくものと言えよう。すなわち”楽うて・・・”の心、歓んで行なわせていただく-という、この心が、大切なのである。

 このように考えてみるとき、心の持ち方こそ、自身をその因縁の苦海に沈めていくか、あるいは、み仏に生かされる歓喜(しあわせ)の岸に導くか-、の分岐点となっていることが確認される。

 そして、同時に、真理を求めていくうえに、たとえ、苦難に見舞われたとしても、

 『この泥があればこそ、咲け蓮の華-』

の言葉のごとく、そのことごとくをも、感謝の心で受け止めていけば、必ずや、乗り越えさせていただける-、これが、何より尊いことではないだろうか。お互い、み仏に生かされる歓びのなかに、不動の歩みを、どこまでも、貫いていきたいものである。(昭和二十一年九月)」

 以上の思し召し的な信念は、キルケゴール、セネカ、そして真乗はそれぞれ微妙に趣きが違います。キルケゴールはあくまで赦しの観念、セネカなどは鍛錬の観念、真乗については信じられないことですが、感謝の観念です。そしてわたしは、彼らのような高邁な人間ではないので、パブロフの犬のごとく、「希望」の観念です。

「燈火は念々に滅するといえども、光明(ひかり)ありて闇冥を除き破る。道を修める者も、またかくのごとし。」

 教主様、やっとあなたに戻ってまいりました。わたしはあなたを誹り、まるで孫悟空のように世界を見て周りましたが、結局はあなたの手の中で踊っているに過ぎませんでした。あなたに少しでも近づけたなら嬉しいです。ありがとう。ごめんなさい。

 ひとこと付言いたしますと、五烏大明神はわたしの守護神ですが、同時にわたしは神の守護者なのです。わたしは幼き頃より小烏の山からずっと見守ってくださっていた神を守りたかった。田舎の小祠の忘れかけられた小さな神を掘り起こし召喚しました。神の救い、御誓願は真実であると証明したかったのです。たとえそれが現実と乖離したものであったとしても、わたしには初めから答えは出ていました。神は慈悲であり、愛であると。

 本書を書き終えるにあたって、あなたの苦悩や心の病は癒やされたでしょうか。わたしは、あなたが元気になることを望みます。少しでも多くの人が、小烏の神の救いにあずかることができることを祈ります。何度も言いますが、神はあなたを見捨てはしません。

 それでは、本書をお読みいただき、心より感謝いたします。一人でも多くの喜びの声がこだますることを祈って。神よ、あなたのもとに憩うときだけ本当の安らぎが訪れる。神に感謝します。

「ちはやぶる 神が慈悲にて 伸ばさるる 救いの御手を とって離すな」

 令和六年十二月五日 小烏の使徒 高河慧佑 謹言

 なむこがらす なむこがらす 南無小烏大明神

 

 おわりに 霊夢について

 

 終わりに、わたしが観た一連の霊夢について書いておく。まず、すでに第二章において述べたことだが、第一の啓示的な夢のことからである。この令和元年の、わたしが三十三歳のときに観た夢を皮切りに、霊的な夢を数多く観るようになった。寝ぼけているときもあるし完全ではないが、わたしは夢日記をつけているので一部ご紹介する。

 

①天空の社(令和元年八月十六日)

 子供の頃に両親と川の字になって寝ていたときに何度も観た夢で、三十歳を過ぎて再び観たものであり、再び観るまではすっかり忘れていたもので、子供の頃に観たものと全く同じ内容である。すなわち、小烏神社の井戸がある小道からさらに上に登ると、現実にはない遥かな高い山が続いてゆき、青く澄み渡った空のもと、アルプスのような雄大な美しい山をずんずん登っていく。登っていくうちに周囲がだんだんとたそがれてゆき、やがて頂上に近いところまで来る。頂上には大きくて長い階段が杉のような大木の林に囲まれて聳え立っており、それを登り切ったところには大きな天の門がある。それは決して煌びやかなものではなく、素朴な藁葺き屋根の門である。門の向こうからは靄が立ち込めていて、奥の方はキラキラと光り輝いている。そこに足を踏み入れたらいつも目が覚める。というものである。

②小烏の本殿

 これも確実に子供の頃に観たものと全く同じ内容なのだが、小烏神社の階段がとても長く高く聳え立っていて、両側には実際にはない趣きのある灯籠が立ち並んでいる。そして、また神社の上の山がもっと続いていて、頂上の森の中に本殿のようなものがある。わたしはそれを探して彷徨っていていて、そのうちに赤い小さな祠のようなものを見つける。その中の御神体を拝んだような覚えがある。そして参拝を終えて神社を下りていくと、かつてわが家の棚田だったところが、天国のようにキラキラと輝いていて、棚田の中ほどの場所の奥の方に、大きな岩の戸がある。その中から水が湧き出していて、戸を開けて中に入ると、また今度は白い小さな祠がある。というものである。

③白い烏

 いつものごとく小烏神社に登ると、何やらカラスたちが集まっていて、社殿の上の方に一際抜きん出た白いカラスがとまっている。その周りを黒いカラスたちが大勢取り囲んでいる。わたしはそれを眺めている。というものである。

④小烏の大仏

 これも子供の頃に観た夢と同じなのだが、小烏の遥かな山を皆で御神輿を担いでを登っていくと、山上に大きな寺があり、鎌倉の大仏のような大きな仏像が鎮座しているところに出る。そこに御神輿を安置する。周りの山々や里の光景が見覚えがある。というものである。

⑤古代の祭祀場

 また小烏神社の上の方を登って探索していると、マヤ文明にあるような禍々しい紋章が描かれた石の遺跡があるところを見つける。ここは実際に、神社の山手にある、熊野のゴトビキ岩を思わせる巨石を石垣が取り囲んでいる古代の祭祀場と思しき平坦な場所である。そこで岩に描かれていたのか単にイメージとして残っているのか、白い蛇のイメージが記憶に残っている。というものである。

⑥小烏の桃源郷

 またこれも子供の頃にも観た夢なのだが、これでは神社などは出てこないが、わが家の棚田から、もっと奥の奥の方に入っていって、山らしい山の中に入っていくと、苔むした墓場が点在する遺跡のような緑の青々としたところに出る。わが家の山に近い方は落ち葉が多く紅葉している。その先を登っていくと、上品な城か館のような建物があるところに着く。そこがとても美しく、そばには風見鶏がくるくる回っている。周りには桜のような美しい花々が咲き誇っていて、まるで秘密の花園のようであった。というものである。

⑦御神木の火

 神の火で焼死するという衝撃的な夢である。伊保庄の半島をかつての同級生たちとドライブしているのだが、途中小高い丘があり、巨大な御神木が聳え立っている。それに急に火がついて轟々と燃え盛る。その神火が自分の体に燃え移り、熱い苦しい思いで焼き殺される。場面が変わり、明け方には小烏の山の真下に、エチオピアの十字架の遺跡のようなものが浮き彫りになっている。というものである。

⑧小烏の満月

 なぜかかつての同僚と一緒に働いている。夜になって家に帰ると、小烏の山に空を覆わんばかりの大きな満月が照り輝いている。急に場面が変わり、令和の天皇陛下を乗せた高級車が来て、陛下が車から出てくる。そこに鮮やかな着物を着た教主様が現れ、陛下の前でゆったりとした舞を踊る。というものである。

⑨神が肩にとまる

 かつての想い人がいた家を訪ねて、彼女を求めて、いつもしていたように家からてくてくと歩いていく。けれども、彼女には会えず、そのあとすぐ大きなカラスが出てくる。太陽が燦々と照りつける青空を、漆黒の大鴉が天高く飛んでいる。それが舞い降りてきて、わたしの肩にとまる。大きな爪をしていたが、不思議と痛くはなく、優しい感じがした。というものである。

⑩レンゲの花束 夭折した小学校の頃の同級生が出てきて、レンゲの花束を手渡される。あとから花言葉を調べたが、夢の中では「あなたが好き」とわたしは認識した。彼女はあの頃の無垢な少女のまま、顔は優しく微笑んでいた。というものである。

 以上であるが、他にも断片的な霊夢がさまざまある。これらのヴィジョンは、はっきりとわたしの脳裏に焼きついている。わたしは夢解きや夢占いはできないが、自分なりにそれなりの解釈はしているし、こうした夢は、何よりわたしが小烏の人間であるということの証左である。フロイトやユングの夢分析は参考にはできるが、その余力もないし鵜呑みにするつもりもない。わたしはわたしであるから。

 神様、あなたはすでに御誓願を果たされている。わたしは再びあなたのもとへ帰るときまで、この尊い道を歩んでゆきます。

「御祖らが 観せしまほろば 想起とぞ 辿り着く宮 夢のまた夢」

 令和辰六年師走上旬 高河慧佑 謹言

 なむこがらす なむこがらす 南無小烏大明神

 

 奥義 神通力の方程式

 森羅万象ひとつとして、我が神力に叶わずということなし。

 これは実際にあったことである。以前、宮島の舞楽の動画を撮って、それがユーチューブでバズったことがあるのだが、これには非常に不思議な経緯がある。わたしは二十代の頃に夜の舞楽を撮っていて、スマホの容量が少なくなり、途中で母から電話があって撮影が中断してしまったことがあった。その苦い経験があったため、用意周到に容量の大きいスマホを買い、また機内モードにするなどして準備万端でスタンバイしていた。

 そして四月の桃花祭に障害者の友人と二人で行ったのだが、彼とは昼間の大聖院で柴灯護摩を見ていたら、いつの間にかその場からいなくなっていて、終わった頃にメールが来て「しんどいから鳥居のところのベンチにいる」とのことであった。急いでそこへ行ってみると「もうえらい」と疲れた様子で、とりあえずコンビニに入っておにぎりなどを買って一緒に食べた。夕方から舞楽があるため、彼は「君は舞楽が見たいんだろう。俺は一人でも帰れるから」と言った。けれども、わたしは一人で帰らせるのは危ないと思って、十年越しに近い念願だった舞楽を撮ることを諦めて彼と一緒に帰ることにした。電車の中で内心、一人で来ればよかったと残念な気持ちであった。しかし彼は何事もなく無事に家に帰れた。

 その後、諦めきれずネットで宮島の予定を調べると、その次の五月に推古天皇遥拝式があり、演目は少ないものの舞楽が奉納されることを知った。そして改めて出直して撮りに行ったところ、想定外のことがあったのである。朝からある日だったため、早めに行ってスタンばっていると舞楽が始まり、予定にはなかった見たことのない迦陵頻という子供たちが舞う舞楽に遭遇して、首尾よく可愛らしい姿をカメラに収めることができた。その後、期待していた花形の蘭陵王も無事カメラに収め、満足して動画のタイトルなどを考えながら電車で帰った。それから動画を三本ユーチューブにアップすると、迦陵頻と蘭陵王の再生回数が異様に伸びていった。当初はそこまで期待していなかったのに、すぐに一万回を超え、現在は両方合わせて十万回を超えている。これがもし障害者の友人を見捨てて一人で帰していたら、推古天皇遥拝式には行くことはなかったから迦陵頻には巡り会えなかったし、蘭陵王も昼間だったためしっかり美しく撮ることができた。このバズりはなかったことは言うまでもない。

 このことが示唆するのは、自分の欲望を満たすことよりも苦しんでいる人や小さな命を守ることを優先するところに、神仏は御力を流してくださるということである。神は弱き者の姿を通して、いつも我々を試されているのである。自分中心ではなく、神仏(弱者)中心に考えることである。神は自分の欲望を取るのか、目の前にいる苦しむ者を守ることを取るのか、その人の心のうちをご覧になっておられる。良心とエゴイズムの狭間で葛藤すること、そこに人間の本性が現れるのであって、誰しも人生に何度かその欲望と良心の天秤に己が魂をかけられるときが来る。これが神仏の御力のからくりである。

 かの芥川龍之介の『蜘蛛の糸』では、地獄で苦しむカンダタは自分が救われたいばかりに他の罪人たちを蹴落とした。その利己心の重みで糸が切れて再び地獄の底に落ちていった。彼が救われるには、後から登ってくる人たちに一緒に登ろう、もしくは自分はいいからお前たちが先に登ってくれと譲ることだったのである。そうすれば後から二本目のもっと強い糸が垂らされ、登り切った先の極楽でも迦陵頻のような特別なご褒美がついてきたことであろう。神は欲望自体は否定されない。しかし、それより大事なことを守るところに求めていた以上のお恵みを与えられるのである。我々はいつも試されているのである。土壇場で己が欲望より良心を選択すること、これが神仏の救いの方程式の解き方にほかならない。これが神様仏様のお眼鏡に適った正しい願いの叶え方なのである。

 まず人間には誰しも欲望や利己心(魔性)がある。それと拮抗する形で良心や理性(仏性)などの徳がある。そこに神の試み(蜘蛛の糸)が加えられるところに神通力が働く余地がある。そして信仰(至誠心)があることによって、どんな結果でも虚無には終わらず、感謝か懺悔という清らかな浄福のうちにある。なお、神の試みが加えられない平時においては、仏性が勝ることによって平安がある。正直を欠けば不純な計算になり、良心を欠けば冷酷に見捨てて、理性を欠けば正直者が馬鹿を見る。それを神の思し召しを信じ抜く信愛で全部がけして強固なものとする。信を徳に掛け、試みで割り、利己心を引く。解が正の値なら御力(克己)、負の値ならカンダタ(無明)である。以上の事柄を数式で表してみることにしよう。

 

 本来なら神の試みは分母で表すのだが、ソフトの関係で横並びで示しておく。

 神通力の方程式(神の公式)

信愛×(至誠(正直)+理性(智慧)+良心(慈悲))÷神の試み(蜘蛛の糸)-利己心=御力(克己)感謝・懺悔

信(三徳)÷試み-欲望=御力 または 欲望÷試み+信(三徳)=克己

 たとえば、

徳30で試みが2の場合、15が残り、欲が10ならそれを引き、5のお恵みがある。

徳10で試みが2の場合、5が残り、欲が30ならそれを引き、-25となり蜘蛛の糸が切れる。

欲が10で試みが2の場合、5が残り、徳が30ならそれを足し、35のお恵みがある。

欲が30で試みが2の場合、15が残り、徳が10ならそれを足し、25のお恵みにとどまる。

 以上のように、神通力の方程式とは倫理や不救済戒を数学化したものである。

 

「たまさかに 神の試み 慄けど 利他の心に 御力流る」

 末世の衆生済度の大願成就したまうなり。

 

 終章 天の門の向こうへ

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。

 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。

 おごれる人も久しからず、唯、春の夜の夢のごとし。

 猛きものもついにはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。

 あなたは死んだらどんな世界へ行きたいだろうか? 五烏浄土論、これはわたし個人の嘆きから生まれたものである。第五章において少しばかり述べたが、本書の最後の締め括りとして五烏教徒の死後の世界を示そう。これはわたし個人の願望に基づく感情論的な論説になることをあらかじめ断っておく。

 五烏者の来世、五烏浄土とは、一神教や浄土教で説かれる神仏から一方的に与えられる一律の世界ではない。なぜなら、わたしはヨハネの黙示録で描かれるような、煌びやかな宝石が散りばめられた都会的な「新しいエルサレム」などには何の魅力も感じないから。また多くの仏典で説かれるような蓮の花が咲き音楽が奏でられる極楽も同様である。いくら美しくて富んでいようが、そんな何の縁故もない冷たい世界は真っ平ご免である。そんな場所で神が「涙を拭って」くださっても悲しみは消えはしない。わたしはとにかく、生まれ育った失われし我が河野家や小烏の山里が復活することを望む。それがわたしの悲願であり、そこが何よりの天国であり浄土にほかならない。すなわち、天上の河野家と小烏の里がそれである。このように、わたしは小烏のみならず家と祖先、郷土を深く愛している。これらを論証する根拠は貧弱だが、あえて言うならば五烏大明神は慈悲の御心から中有に留まっておられ、我々はその守護のうちにあるから、その神を信愛する者たちの魂は当然そこへと向かってゆき、温かく迎え入れられるということである。わたしの天の門の霊夢もそれを直観的に補強する。そして夢中神勅で仰せになったように、「我が神力に叶わずということなし」であるから、この神を信ずる者の願いは必ず叶えられる。たとえば、ツバメの雛たちが日本で心優しき人に見守られながら生まれ育ち、巣立ちして東南アジアへ帰って冬を越したのち、春が来るとまた日本へ戻ってきて同じ人がいる安心できる場所に巣を作り、今度は自分の雛を育てるという願いを叶えるようなものである。そのように、我々も神の守護のうちに生まれ、死ねば再び神のもとへ還ると考えられる。つまり我々は帰巣し、また成就するのである。

 これを敷衍して考えてみると、誰しも各々の故郷や安らげる場所、思い入れのあるものがあるわけであり、それを神は各自にそれぞれの信仰や願い、愛着などが反映された固有の箱庭をしつらえて与えてくださると考える。誰しも多かれ少なかれ、望郷の念や思い描く各々の心の桃源郷というべきものがあるものである。天上の河野家や小烏の里はわたし個人のものであって、それを押し付けるつもりはないし神もそれは望まれないであろう。それゆえ、あなたにはあなたの願いが反映された固有の浄土が神から与えられる。また、信仰や思想の違う人々にも神はそれぞれの願いを叶えてくださる。たとえば、わたしの曽祖母は浄土宗と真言宗を篤く信仰し、長男を夭折して亡くしているが、その信仰は尊重され息子も傍らにいるであろう。そしてまた、前述のキリスト教や浄土教のような全くの新世界を望む者には、すべからくその願いが叶えられる。無宗教の者にはそのような無機質な箱庭が与えられるか、無になることを望む者は完全に消滅する。また、終末のときまで懺悔の心を持たずに輪廻が終わった者は神が悔悛させて決着をつける。小烏の神は寛大なお方であり、個人の信仰や思想は最大限尊重されるのである。しかし、たびたび述べたように、この世界はすべて一つの唯一の存在から流出したものであるから、みなが一堂に介して憩う公共の場所もあるであろう。その天上の大空には五烏大明神が優雅に飛んでいる。

 むろん、読者が小烏神社を気に入ってくれてこの世界がよいと思うのなら、わたしと共に小烏の山里に行こう。まず、あの天の門をくぐって奥へ進んでいくと、ありし日の懐かしい我が家の光景が視界に飛び込んでくる。往時のように、田んぼには稲穂が頭を垂れ、畑には野菜が育ち、棚田には柿の木たちが実っている。失われた庭の池には鯉が泳ぎ、枯れてしまった庭木や観葉植物もよみがえる。生垣にはツツジが咲き誇り、山を仰げばうぐいすが高らかに鳴き、竹林が風に吹かれて揺れている。共に過ごした動物たちや道端の死骸を埋めてあげた生き物も元気な姿を見せる。わたしを慕ってくれた亡き愛鳥も、自慢の歌を喜び唄いながら飛んでくる。そして誇り高き祖先たちが出迎え、肩を叩いて「よくぞ成し遂げた」とわたしを労う。祖父はいつものように畑で精を出し、祖母は好物のよもぎ餅を作っている。そして母と叔母が微笑を浮かべながらこちらに手を振っている。地上から滅亡する河野家は、このようにかつての栄光を天上で取り戻す。とにかく、我々五烏者にはヨブのように、いずれ失われた大切なものが丸ごと回復され、だからこそ希望を持って死ぬことも生きることもできる。神が喪失したものをすべて取り戻し、生前に叶わなかった夢をも叶えてくださるのである。だから我々は誰も孤独ではない。天の門をくぐれば懐かしい風景と大切な人々が待っているから。

 しかれども、五烏者は五章で述べたように、五烏浄土の居心地の良い箱庭でただ安穏と過ごすわけではない。彼らは後世の苦難に遭っている衆生を助けるために神の思し召しの計画に霊的に参与する。五烏者の使命は、神の尊い思し召しの御業を完成させることである。先に述べたように、五烏者には各自に五烏ヴァルキリーがついている。彼女らは内外のジハードを戦い抜いた魂に、霊的甲冑(わたしの家系の者には「河野の鎧」)を授け、信仰者たちは五烏武者として神の前に馳せ参じる。このように、五烏者は死後も能動的であり、それはとりもなおさず不救済戒、すなわち善きサマリア人の譬えを死後にも実践することにほかならない。つまり、五烏者は生前も苦しんでいる命を見捨てず、死後も後世の苦しむ者を見捨てないのである。他宗教のように自分だけ往生や解脱をして抜け駆けするのではない。五烏武者は神の武士道を体現するのである。

 神はいやはての日にすべての不条理や矛盾を是正し、見逃された不正や悪をことごとく一掃する。現世で裁かれなかった真の悪人に最も都合の悪い己が心を烏鏡によって見せつける。そこで不信仰者は烏鏡に映った自らの醜さに耐えられなくなり、ついには悔悛する。正義は必ず勝つ。あなたに五色の烏の厳粛かつ慈悲深い御声が聴こえてくるであろう。

 ご先祖様、わたしはあなたがたの最後の末裔として使命を全うできたでしょうか。どうかこの不肖の子孫をお迎えください。

「河野家の 誇りと力 よみがえる 麗しき里 神が見守る」

 

 参考文献

中村元選集・別巻1~8

『世界思想史』中村元/春秋社

『日本の思想』同上

『日本人の思惟方法』同上

『世界宗教史』1~8 ミルチア・エリアーデ/ちくま学芸文庫

『シャーマニズム』同上

『神道のこころ』シリーズ 葉室賴昭/春秋社

『にほんよいくに』同上

『自己の探究』中村元/青土社

『人生を考える』同上

『生の短さについて』セネカ/岩波文庫

『怒りについて』同上

『キルケゴールの講話・遺稿集4』飯島宗享編/新地書房

『ルターの慰めと励ましの手紙』T・G・タッパート編/リトン

『ツァラトゥストラ』ニーチェ/中公クラシックス

『武士道』新渡戸稲造/岩波文庫

『学問のすすめ』福沢諭吉/岩波文庫

『日本の古典をよむ』シリーズ/小学館

『うひ山ぶみ』本居宣長/講談社学術文庫

『平家物語』尾崎士郎/岩波現代文庫

『源氏物語』瀬戸内寂聴/講談社

『レ・ミゼラブル』ヴィクトル・ユゴー/岩波文庫

『レ・ミゼラブル』ヴィクトル・ユゴー/ちくま文庫

『ハイジ』J・シュピーリ/福音館書店

『アリストテレスの人生相談』小林正弥/講談社

『アリストテレス「哲学のすすめ」』廣川洋一/講談社学術文庫

『いま自殺を考えている人のための哲学』無所住/サンガフロンティア

『ブッダの瞑想法 ヴィパッサナー瞑想の理論と実践』地橋秀雄/春秋社

『仕事と日』ヘシオドス/岩波文庫

『哲学入門』ヤスパース/新潮文庫

『スッタニパータ』中村元/岩波文庫

『ダンマパダ』同上

『龍樹』中村元/講談社学術文庫

『世親』三枝充眞/講談社学術文庫

『ニコマコス倫理学』アリストテレス/岩波文庫

『形而上学』同上

『弁論術』同上

『プラトン全集』田中美知太郎/岩波書店

『論語』宮崎市定/岩波現代文庫

『コーラン』井筒俊彦/岩波文庫

『仏教聖典』仏教伝道協会

『聖書 スタディ版』日本聖書協会

『BIBLE navi』いのちのことば社

『熊野 八咫烏』山本殖生/原書房

『古事記』三浦佑之/文藝春秋

『なぜわたしだけが苦しむのか 現代のヨブ記』H・S・クシュナー/岩波現代文庫

『ブッダ 臨終の説法』田上太秀/大法輪閣

『ブッダ 最後の旅』中村元/岩波文庫

『老子』鉢屋邦夫/岩波文庫

『荘子』森三樹三郎/中公クラシックス

『ウパニシャッド』岩本裕/ちくま学芸文庫

『チベット死者の書』川崎信定/ちくま学芸文庫

『アヴェスター』伊藤義教/ちくま学芸文庫

『ウパデーシャ・サーハスリー』シャンカラ/岩波文庫

『バガヴァッド・ギーター』上村勝彦/岩波文庫

『告白』アウグスティヌス/岩波文庫

『神学大全』トマス・アクィナス/中公クラシックス

『慈悲』中村元/講談社学術文庫

『アーサー王の死』トマス・マロリー/ちくま文庫

『オイディプス王』ソポクレス/岩波文庫

『エネアデス』プロティノス/中公クラシックス

『空海コレクション』全4巻/ちくま学芸文庫

『現代語訳 大乗仏典』シリーズ 中村元/東京書籍

『宇宙論入門』佐藤勝彦/岩波新書

『宇宙論と神』池内了/集英社新書

『中原中也詩集』新潮文庫

『金子みすゞ名詩集』彩図社

『歎異抄 現代語版』本願寺

『法華義疏 十七条憲法』聖徳太子/中公クラシックス

『密教経典』宮坂宥勝/講談社学術文庫

『自省録』マルクス・アウレリウス/岩波文庫

『イスラムの神秘主義』R・A・ニコルソン/平凡社ライブラリー

『生きがいについて』神谷美恵子/みすず書房

『倶舎論』桜部建/大蔵出版

『五行大義』中村璋八/明治書院

『養生訓』貝原益軒/中公クラシックス

『選択本願念仏集 法然の教え』阿満利麿/角川ソフィア文庫

『過去と和解するための哲学』山内士郎/大和書房

『アラビアン・ナイト』ケイト・D・ウィギン、ノラ・A・スミス編/福音館書店

『ルーミー語録』井筒俊彦訳/岩波書店

『エティカ』スピノザ/中公クラシックス

『日本書紀』福永武彦/河出文庫

『ギルガメシュ叙事詩』月本昭男/岩波書店

『エッダ 古代北欧歌謡集』谷口幸男/新潮社

『カラスの文化史』カンダス・サビッジ/エクスナレッジ

『ハヤブサ降臨 そして不死鳥はよみがえる』ハヤブサ/徳間書店

『スヌーピーたちの人生案内』チャールズ・M・シュルツ/主婦の友社

『ローゼンメイデン』PEACH-PIT/集英社

『かんなぎ』武梨えり/一迅社

『青の祓魔師』加藤和恵/集英社

『広辞苑 第七版』岩波書店

『岩波 哲学・思想事典』岩波書店

『神道事典』國學院大学

『佛教語大辞典』中村元/東京書籍

『亡びざる生命』花山信勝/百華苑

『伊保庄の歴史』村上省吾/藤本印刷

『伊保庄の方言』尾川恒祐

『小烏神社について』尾川恒祐

『燈火念々』伊藤真乗/真如苑

『一如の道』真如苑

 

 

 プロフィール 

 

高河 慧佑(たかがわ けいすけ)

昭和61年4月23日生まれ。山口県柳井市伊保庄西高須出身。

中学二年生でひきこもりになり、高認(大検)に合格しただけの者。それも含めてすべてが独学で自力。

先祖代々の田畑を耕せなかった不耕貪食の徒。自身のいたらなさ故にお家断絶する運命。

元書店員だが、大した社会経験はない。ミゼラブルである。しかし、本当はミゼラブルではない。

河野氏の末裔だが、わたしは河野通有の道を歩まず、一遍上人の道を歩んでいる。

シャンカラやキルケゴールが三十代で夭折したように、本書がわたしの遺言となる可能性もある。

MBTI診断では、提唱者(INFJ-A)だったが、わたしは「小烏者」である。

本書を、ある人に捧ぐ。あなたがまだわたしのことを憶えていてくれていたなら。

なむこがらす なむこがらす 南無小烏大明神