第四章 五烏神義論
ヨブ記において、義人ヨブはこう嘆く。
「滅びよ、わたしが生まれた日、男の子が孕まれたと言ったその夜。」
これは、そのままかつてのわたしの嘆きである。
ユダヤ教のラビ、H・S・クシュナーは、ヨブ記についてこのように述べる。
「完全に全能ではないが善である神と、完全に善ではないが全能の神と、どちらを選択するかとせまられて、ヨブ記の作者は神の善を信じるほうを選んだのです。」
ヨブ記の作者は、神が全能であることを放棄しようとしているという。つまり、神は善であるが、その力の及ばないこともあるということである。この論はあながち間違いではなく、わたしもこの二律背反のアポリアに長らく、いや正確に言えば今も悩まされている。多くの神学者たちはこの問題に逡巡し煩悶している。この問題は、すでに思し召し信仰を説いたからといって、決して疎かにできないものである。
そもそも、「なぜわたしたちは生まれてきたのか」、あるいは「何のために生まれてきたのか」、あるいは「どのようにして生まれてきたのか」という問いを立てる。一つ目の「なぜ」というのは理由を問うている。これは宗教家が答えることである。多くの宗教は「神を讃美するため」と答える。二つ目の「何のために」というのは目的を問うている。これは哲学者が答えていくことである。わたしのような凡人でも「幸せになるため」と即答することができる。三つ目の「どのようにして」というのは原因を問うている。この中には「いつ」「どこで」という時間と場所についての問いも含まれている。以上の理由・目的・原因は、実は一つのものであるようにも考えられる。理由の中にすでに目的と原因が含まれているように考えられ、また他の二つから見ても、やはり同様のことが言えるのである。とはいえ、「なぜ」ということと「どのようにして」ということを追求するのはここでは差し控えたい。わたしは「何のために」ということ、つまり現実的に幸福になることをここでは取り上げる。なぜなら、どのような形であれ、幸福は万人の求めているものであり、今この瞬間にも我々に差し迫っている事柄だからである。
およそ世界の人々は絶対者に対して、幸福になること、もしくは不幸にならないことを祈っている。もっとも、無宗教の人もいるし、宗教の中には現世において幸福になることを諦めて、来世で幸福になることを目指しているものもある。しかし、無宗教の人といえども、もちろん幸福を求めているし、現世を軽んじている人も、来世での幸福を求めているのであって、本当は諦めているわけではない。
世の中には、おおよそ四種類の人間がいる。第一は、良いことは神様のおかげで、悪いことは自分のせいだと考える人。第二に、良いことが神様のおかげなら、悪いことも神様のせいだと考える人。第三に、良いことが自分のおかげなら、悪いことも自分のせいだと考える人。第四に、良いことは自分のおかげで、悪いことは神様のせいだと考える人。第二と第三の考えは理屈が通っている。第二の人は、神が世界を支配しているのなら、当然良いことも悪いことも神の責任であると考えている。第三の人は、世の中自分の力で何とでもなる、だから良いことも悪いことも自分の責任であると考える。第一と第四の考えは論理的に破綻している。論理に無理があるにもかかわらず、我々は第一の人を美しいと称賛する。反対に第四の人は醜いと非難する。我々は第一の人になるべきである。そのためには我々は神との合一を図るべきである。神社に御神鏡が安置されていることを思い出してみてほしい。これが何を意味するか。わたしはこう考える。鏡というものは、もちろん自分の姿が映るものである。その鏡が神のいます社に御神体として安置されている。ということは、神は自己の外部に存在しているのではなく、自己の内部におられるということになる。さらに、神仏とは救済者であり、その御心は衆生済度であることをわたしは信じている。こうして、神仏とは自分のことであり、だから自分を救うのは自分自身にほかならない。その上、世のため人のために尽くし、世界そのものをも考えていかねばならない、という結論が導き出される。この推論をまとめると以下のような論法になる。神社に鏡が安置されている。それなら、神とはわたしのことである。ところで、神とは救済者である。しからば、わたしは救済者である。それゆえ、わたしを救うのはわたしである。理屈の上で神と合一したに過ぎないが、太古の日本人は賢明であったと考えられる。
ここで、これから幸福になろうと考えている二人の異なる意志を挙げてみる。
①自分のために、神仏に幸福してもらおう。②自分のために、自分で努力して幸福になろう。
①に偏りすぎると、もはやその人は他力本願で怠惰な人でしかない。農業で例えると、いくら神仏に豊作を祈願しても、神様が自ら田植えから稲刈りまでしてくれるわけではないことは言うまでもない。②に偏りすぎると、その人は一見努力家に見えるかもしれないが、極端な人は傲慢で独善的な性格をしている。確かに一年の収穫は彼が頑張って働いた賜物である。しかし、決して彼だけの力によるものではないのは明白である。我々は農耕に必要な土地、清らかな水、祖先たちが品種改良を重ねてきた稲、祖先から伝えられた技術、はたまた田畑を潤す雨や、稲を成長させる日光を届ける太陽をわたしたちが自分で造ったわけではない。自然の恵みを使わせていただいているということを忘れてはならない。「人智を尽くして、天命を待つ」というのが正しいあり方なのである。人はそれぞれ①と②の間のどこかにいるが、現代は無宗教の時代なので、ほとんど②の方に偏っている人が多い。さて、仮にも神との合一を果たしたあなたは、①と②の中間、あるいはこれらを超えたところに三つ目の意志を見出すことができるだろう。それは、
③神様のために、自分で努力して幸福になろう。
主語が「自分」から「神様」に変わっただけである。なぜ自分が幸福になることが神様のためになるのか。それは③の意志を正確にいうとこうだからである。
「神仏の衆生済度の御心を証明するために、我々は意地でも幸福にならねばならない。」
①は他力であり、②は自力である。そしてこの③は、いわば他力(神力)があることを自力(人力)で証明しようとするものである。わたしはこれこそが本当の信仰であり、最も敬虔な態度であると考える。このように、神様を第一に、最優先に考えるのである。神様のことを考えたら、幸福になることを絶対に諦められない。なにしろ、諦めたらそれこそ神も仏もないことを証明してしまうのだから。
ここから具体的にどのようにして幸福になるかを考えていく。アリストテレスが『弁論術』において論じている幸福論から述べる。わたしは世間一般の人々が求めている享楽的な生活をすることが幸福だとは考えない。もろもろの哲学者たちは、彼らを「欲望の奴隷」と揶揄する。かといって、仙人のような禁欲的な生活をしている人々が幸福であるとも考えない。立派だとは思うが、彼らが幸福であるかは疑わしい。ブッダは「欲望を滅した者が幸福である」と悟ったが、それなら木や石が最も幸福だということになる。いや実際そうなのかもしれないが、わたしのような凡夫にはできることではない。そこで快楽主義と禁欲主義の中間に位置するアリストテレスの幸福論に基づいて論ずることにする。やや現代社会にはそぐわないものもあるが、彼の幸福観はマズローの欲求段階説とほとんど同様のものである。以下述べていく。
①血筋のよさ
アリストテレスはこれを第一に挙げる。いかにも古代人らしさを感じるが、実は現代人にも全く無関係なものではない。今日の心理学者たちも、人間の人格は遺伝と環境の両方で決まると考えている。顔貌に限らず、知能は両親の遺伝が大きく、子供の将来に深く影響する。真相は、氏も育ちも、どちらも大事だということである。我々はおぎゃあと生まれた以上、こういった宿命から逃れることはできない。けれども、こういうことは現代ではほとんどタブーとされているし、わたし自身もすべての人には仏性があると考えるので、あまりこの点にこだわらなくともよい。
②よい子供に恵まれること
これもまた子孫繁栄を重んじた古代人らしさを感じるものである。この場合の「よい」の意味は、身体的にも精神的にも優秀であるということである。たしかによき子供に恵まれることはめでたいことであり喜びである。けれども、現代は貧困や不妊、LGBTの問題など、価値観が多様化し、子をなせない人たちも多くいる。それゆえ、これにもあまりこだわらなくともよいであろう。ブッダは「子のある者は、子について憂う」という。子は幸せも運んでくれるが、不幸も運んできたりする。親不孝者のわたしは、両親にどれだけ心配をかけたかしれない。反省する次第である。
③富
アリストテレスのいう富とは、多量の貨幣、広い土地、多くの奴隷を所有することであった。お金と土地はともかく、奴隷は現代では論外である。別書においては「富はほどほどでよい」という趣旨のことを述べている。老子は「少欲知足」、いわゆる足るを知るという言葉で、必要最小限のもので満足することを勧めている。よくアルコール依存症の人を「酒を呑んでいる」と言わずに、「酒に呑まれている」と表現するが、これは対象を支配しているのではなく、対象に支配されてしまっている状態を言い表している。我々が普段何気なく買っているものも、ひょっとしたら「買わされている」のかもしれない。逆に「衣食足りて礼節を知る」ということわざもあるように、あまりにも貧しいのも問題である。富についてはバランスが大事と考えられる。
④名誉
名誉というものをアリストテレスは、世の人々から優れている、善人である、徳があるとよい評判が立っていることである、と端的に述べているが、別の著書では「名誉は快楽や富よりはよいものであるが、それほど大したものではない」というふうに述べている。わが国は名誉を非常に重んずるお国柄である。ただし、こうした名誉は所属する社会によって与えられるものに過ぎない。本当の名誉とはいかなるものかということは、プラトンの著作からヒントを得た。彼は登場人物にこう言わせている。
「完全に不正な人間は、最大の悪事をはたらきながら、正義にかけては最大の評判を、自分のために確保できる人である。」
もう少しわかりやすくいうと、「極悪人とは、あらゆる悪しきことを行いながら、それを巧妙に隠蔽し、人々から最も善き人と称賛され、位人臣を極めている人」である。
こうしたことをじっくり考えてみると、最も名誉ある人とは、こう考えられる。「聖人とは、あらゆる善きことを陰で行い続け、誰からも称賛されずとも、慎ましく暮らすことに満足している人」と。だから、本当に名誉ある人は無名なのである。さらにつきつめて考えてみると、人間には信仰が必要であるということがわかってくる。人が透明人間になったら何をするか、思い浮かべてみてほしい。天罰を全く信じない人が透明人間になれば、悪行しかなさなくなるであろう。天罰を100%信じる人は、透明人間になっても善行しかなさないであろう。あまり脅しつけるのは良くないが、昔の人が「お天道様が見ているぞ」と子供に戒めていたのは正しいのである。
⑤身体の徳
これは健康および身体能力、容姿の美しさである。健康が一番とよく言われるが、その通りで、この上なく幸福な生活をしている人も、激しい苦痛を伴う病気にかかれば一気に不幸に転落する。身体能力については、さすがオリンピック発祥の地だけあるといったところだが、日本の武士たちも日々武芸に励み、体を鍛えていた。「健全な魂は健全な肉体に宿る」というように、身体も決して疎かにしてはならず、文武両道ということが大事と考えられる。メルロ=ポンティが明らかにしたように、わたしたちの心と体はつながっているから。一方が病めば、もう一方も病む。容姿については現代ではルッキズムなどと呼ばれて非常に重要な要素になっているが、ソクラテスは若者たちにこう言った。
「美しければそれにふさわしい者となるように。また醜ければ、教養によってその醜さをかくすようにせよ。」
⑥よい老年
よい老年とは、病気知らずで苦痛の少ない老後を送ることである。特に「トロイの木馬」で有名なトロイアのプリアモス王について言及している。詩聖ホメロスが物語るごとく、彼は敵対するミュケナイのアガメムノン王や英雄アキレウスによって、自国の滅びるのを目の当たりにし、非業の最期を遂げた。曰く、「終わり悪ければ、すべて悪し」ということである。これについては、先の「よい子供に恵まれること」と密接に関わっていると考えられる。子や孫のいない、誰にも看取られず死んでいく老人は不幸である。老いと死は誰も免れることのできぬものであることは、仏教徒でなくとも見事に知っている。我々はそれを忘れて生きているだけのことである。
⑦よい友
ここでは「友人とは、相手のためになると考えられることを、もっぱら相手のために行うことのできるような人」としている。要するに、相手の立場に立って考えられるような友である。重要な事柄であるから、『ニコマコス倫理学』から解説する。友について、そして彼らを結びつけている愛について、極めて詳細に論じているので、ここで要約してみたい。
友には三種類ある。すなわち、有用(利益)が得られるから愛している友、快(快楽)が得られるから愛している友、ひととなり(徳、倫理的卓越性(エートス)がある、もしくは徳を積む志がある)が善いから愛している友の三つである。このうち、利益と快楽が得られるから愛している人は、実は友を愛しているのではなく、利益と快楽を愛しているのであって、友から利益と快楽が得られなくなったら、彼は友を愛することをやめる。有徳な人々、お互いに徳のある人たちは、友であるその人自身を愛している。彼らは友が全く徳、あるいは志を失ってしまわない限り、愛することをやめない。利益による愛が最も消失しやすく、次に快楽による愛が、徳による愛は容易には消失しない。
「愛(フィリア)とは一つの卓越性と言っていいもの、ないしは卓越性と切り離せないものである。我々の生活に対して、これほど欠くべからざるものはない。たとえ他のあらゆる善きものを所有する人であっても、親愛な人々(フィロイ)なくしては生きることを選ばないであろう。」
要するに、得か徳かということである。要するに「人はお金や容姿、快楽性ではなく、心で選べ」と言っているのである。いかに奴隷制を容認していたといえども、アリストテレスのこうした洞察は見事である。『徒然草』の兼好法師も似たようなことを言っているし、「孟母三遷」ということわざもある。アリストテレスは「少数にしろ、そういう相手を見出しえたならば満足しなくてはならない」と述べている。なかなかそういった徳のある人にはまみえることができないものである。
⑧好運
アリストテレスは好運を、「運が原因であるよいものを所有すること」とし、例として、他の兄弟はみな醜いのに彼は美しい、とか、他の人々は宝を見出せなかったのに彼がそれを見つけた、とか、戦場で隣にいた者に矢が当たって、狙われた本人には当たらなかった、という場合を挙げている。現代で代表的なものは宝くじであろう。一回買っただけで何億円が当たったとかいう人は最も好運であるし、生涯にわたって買い続けたのに全然当たらなかったという人は運がない。それから、生まれつき障害を持っている人たちを無視すべきではない。彼らを運が悪かったというのも失礼であるし、我々は今後一切、優生思想からはきっぱり縁を切らなければならない。現代社会で最も差別や偏見に晒されているのは知的障害者である。けれども、わたしは彼らが純真無垢で天真爛漫、心優しい人々であることを知っている。わが神の御心が病や老い、障害のある者を守護されるものであるように、わたしも本書において彼らを守る。
運と関わりの深いものに占いがある。しかしわたしは占いにはあまり良い印象を持っていない。何か人の欲望や恐怖心を煽っているようであるから。中国の占術書である『易経』は、史上最高の頭脳と称えられたライプニッツに高く評価され、ユングも夢中になったそうであるが、仮に易が本物だとしたら、易に精通した人たちは、なぜ「この日、この場所で地震が起きますから、この地域の人たちはそれまでに避難してください」と言わないのか訝しく思う。中には予言している者もいるのであろうが、当たっていることがはたしてあったのであろうか。
ところで、我々は普段、自分の頭で考え、自分で自分の体を動かし、物事を自分が選択していると思っている。これを自由意志という。ところが、我々は実は「考えさせられている」「動かされている」、森羅万象はあらかじめ決められている、と考えることもできる。これを決定論という。運と似ている言葉に、運命とか宿命、宿業という言葉がある。下のものほどより深刻な響きがある。運命は抗いがたいもの、宿命、あるいは宿業は決して逃れることのできないものである。キリスト教、あるいは理神論ではそれを、神が定めた摂理という。仏教では因縁(原因と条件)という概念があり、世界は網の目のように複雑につながり合って成立しており、単独で成立しているものは何一つ存在しない(相依性)、と説く。これ以上立ち入って論ずるのはやめておこう。たしかに我々は因縁や運命に縛られて生きているのは明白であるし、もしかしたら宿業なるものも存在しているのかもしれない。しかし、その中で我々は自由意志を行使して、状況を少しは、時には大きく改めることが可能であるとわたしは考える。本書を書いている今も、それを信じてのことである。特に、ストア主義のいう「権内」、すなわち自分の心は外界がどうあっても自由である。ひどい運命に遭遇しても、「堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び」の精神で生きたいものである。
⑨徳
徳(アレテー)についても、アリストテレスは『倫理学』で詳細に論じている。徳とは中庸(メソテース)であると主張している。孔子も中庸を説き、ブッダも中道を説いているが、彼のいう中庸とは極端で偏った感情や行為から離れて、ほどよい中ほどに適中することである。たとえば、恐怖に関してはその中庸は勇気、過剰は無謀(古風にいうと蛮勇)、不足は怯懦(臆病)である。快楽に関してはその中庸は節制、過剰は放埒(中毒)、不足は無感覚(木石)である。我々は時として正反対のものに傾くように努めるべきである。臆病なら少々無謀になるよう心がけた方がよい。そうすることでかえって中ほどに適中するであろうから。
さて、徳というものは諸教においてそれぞれ定められているが、ここでは神道が唱える徳に即して考えてみたい。神道が説く徳は、正直・智慧・慈悲の三つである。南朝の北畠親房が、これらの徳を三種の神器と対応させたという。「正直」は、素直な心、まごころ、嘘偽りのない心で、「智慧」は、かしこさ、善悪や幸福を判断する能力、真理を悟る力で、「慈悲」は、思いやり、慈しみ、憐れみの心を意味する。この三つの徳も、やはり中庸であり、それぞれ関連性があると考えられる。というのは、智慧を欠いた正直は、「正直者が馬鹿を見る」というように馬鹿正直であり、人のいうなりになったり詐欺被害に遭いかねない。慈悲を欠いた智慧は奸智、ずる賢いだけである。正直を欠いた智慧は無知、仏教でいうと愚痴である。正直を欠いた慈悲は偽善であり、智慧を欠いた慈悲は盲愛、甘やかしに過ぎない。慈悲を欠いた正直は文字通り無慈悲である。神道の徳をアリストテレス的に考えると以上のようになる。これら三種の徳はどれも重要なものであるから、すべて備えた人間になるべく精進していかねばならない。正しい選択をするためには、真の正直、すなわち「至誠」に適中するためには、智慧と慈悲の両方を必要とする。というのは、慈悲は正しい目的を定めて、智慧はその目的を達成させるからである。だから彼は、「正義の最高のものは、愛という性質を持ったそれにほかならない」と述べているのである。中庸とは、中国の故事でいうならば「韋弦の佩」である。中国のある人はせっかちな性格であったため、なめし革を身につけて、またある人はのんびりした性格なため、弓づるを身に帯びていたという。
⑩観照的生活
観照的生活とは、ひたすら哲学、思惟、瞑想に耽る生活態度を指す。快楽や名誉のみを求める生活は幸福ではない。『倫理学』において、享楽的生活と政治的生活の次に挙げられるものである。彼は享楽的生活を畜獣や奴隷のごときと罵り、政治的生活も皮相的なものであると述べている。智慧が我々のうちに存する最高のものであり、智慧に即した活動が我々の行いうる最高の活動である、とする。至福である神々は常にこの活動を行っている存在であり、人生において、この活動に多くの時間を費やした人、すなわち智者こそが最も幸福である、と結論づけている。少し現実離れしてるように感じるし、アリストテレスも究極的には神々にしかなしえないこと、と半ば諦めている。孔子は、「学んだことを鵜呑みにして自分で考えないのも、自分だけで考えて人から学ばないのも、どちらも危険である」と警告している。生まれながらにすべてを悟っている人はほぼいないのであるから、まず先人たちが考えたことを学びつつ、さらに自分でも考えてみることが大切である。「井の中の蛙、大海を知らず」ということわざがあるが、あるお経には「大海中の盲亀」という文句があり、大海原を自由に泳いでいる人も実際は何も見えていない、「大海中の盲亀、大海を知らず」という場合もあるのである。逆に井の中にいても大海を知る場合もある。普遍的な宗教の開祖や、独創的な哲学を打ち立てた人たちがそれに当たるであろう。観照的生活は浅学菲才のわたしにはいささか難しいことかもしれない。
親鸞でさえ「愛欲の大海に沈没し、名利の大山に迷惑」していたのであるから、ましてや凡夫であるわたしに執着を断ち切ることは難しい。法然上人のような清廉潔白さや頭脳明晰さがないのはいうまでもない。いずれにしても、我々はJ・S・ミルがいう通り、幸福な豚であるよりも、不幸なソクラテスであった方がよい。あえて例を出すならば、前者は三国志の暗君・劉禅や暴君ネロであり、後者の極め付けは乞食哲学者・ディオゲネスや、わが国では「捨て聖」一遍上人である。ソクラテスの言うように、我々は「食べるために生きる」のではなく、「生きるために食べる」べきである。
お釈迦様は言われる。
「世俗の事柄に触れても、その人の心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、安穏であること。これがこよなき幸せである。」
またアウグスティヌスはいう。
「幸福な生活とはあなた(神)を求めて、あなたによって、あなたのために喜ぶことである。」
わが故郷の郷土史家・尾川恒祐もこのようにいう。
「本当の心の憩いの場は、神仏の御前にあるように考えられます。心の宝は信仰であります。」
さて、以上述べられた幸福や徳といったものは、また災いや悪徳とは、いったいどこからもたらされるのであろうか。五烏教はわたしの思惟によって、限りなくゾロアスター教に近いものとなった。というのも、わたしは若い頃から神や仏が存在するなら、なぜこの世は不幸や悪で満ちているのかという疑問を抱いていたからである。その答えが偶然ゾロアスター教と一致したのである。思し召し信仰についても、あまりにも大きな災いを神が起こしたものだとは考えられなかった。たとえば、あのテーバイのオイディプスやアンティゴネーの壮絶な悲運はとても思し召しとは言えない。神が不幸を善に変えてくれるのはいいとして、その不幸はいったい何に由来するのかと推し進めた。多少の不幸なら神の思し召しとも言える。しかし、大きな悪、原爆やホロコースト(クシュナーや多くのアメリカの神学者たちは、卑怯にも原爆のことは一切取り上げない)、大地震やコロナウィルスなどは神が起こしたとは考えられない。そんなことで家族を亡くした人に対して、何か良いことにつながっていますからね、とは言えない。だからわたしは、悪神や魔王のような存在を想定せざるを得ない。こういうと迷信のように思われるかもしれないが、そうしたらすべてがすっきり説明がつくのである。以下、理由を述べる。
神の存在は認めつつも、不幸は人間の罪のせいとする論への反駁
全知全能の神が世界を創造したなら、悪の存在が説明できない。原爆や地震までも神が起こしていることになってしまう。我々はそのような存在を神とは呼ばない。そのようなむごいことを起こしている神は、神ではなく悪魔である。さらに、人間に自由意志を持たせたのも神であって、結局は人の罪もつきつめれば神の責任になる。なぜなら、神は我々人間を創造するとき、我々が何をなすか知っていたからであり、だからこそ神と呼ばれるのであるから。そして、天災や病気などが説明がつかない。いったい重い障害を持って生まれてくる子供たちに何の罪があるというのか。奴隷船にすし詰めにされて死んでいった黒人たちにいかほどの罪があったというのか。またラス・カサスが告発したインディアスの破壊についてはどうか。彼らのことはしっかりと考慮されなければならない。罪のない者にも動物にさえも自然災害は容赦なく襲いかかる。世の中、悪人が栄えたり善い行いに報いがなかったり、因果応報になっていないことも多い。わたしの同級生の女の子は十代で脳腫瘍で亡くなった。罪のかけらもない心根の優しい子であった。そういった夭折した子たちに、イスラムの大哲学者アル=ガザーリーは、「その子たちは成長して背教したり悪事をなしたから神が先に芽を摘んでおいた」という、とんでもないことを述べている。わたしはそのような論には断固反対する。先祖の罪だとか前世の罪だとかいう暴論にも断固反対する。相手に対して極めて失礼であるし、その人に二重にも三重にも苦しみを与えてしまう。そこまでして神を弁護する人の魂は歪んでいる。神や仏は衆生済度・済世利民のためにおられるのに、そこまで過酷なことを我々に課すわけがない。
無神論・無宗教への反駁
現代は無宗教がデフォルトになりつつある。懐疑論者のカルネアデスはこういった由々しきことを述べている。
「神が存在するということを積極的に断定する人々は、不敬虔のとがに陥らざるを得ない。なんとなれば、もしも彼らが「神は万有を支配している」と言うならば、神が悪いことがらを作り出したことになってしまう。他方彼らが「神はある種のことがらだけ支配している」とか、「あるいは神は何ものをも支配しない」と言うならば、神を無力なものにしてしまう。そうしてこのようなこととするのは、明らかに不敬虔なことがらなのである。」
神がいるのならなぜ悪が存在するのかという問いに、わたしは、それなら逆に神や仏がいないならなぜ世界に善があるのかという反論をする。つまり神や仏がいないなら、なぜこの世は善いことで満ちているのかという逆説の問いである。世の中にはなぜおいしいもの、楽しいこと、美しいことがあるのか。なぜ世界はこんなにまで秩序だっており、我々に都合よく便利なものがあらかじめ備えられているのか。そしてそれを利用する知能をなぜ我々は持っているのか。その問いに無神論者は自由意志と自然現象と答えたとして、それならなぜ人類と地球があるのかと問う。宇宙ができたからと答えられる。宇宙はどうして動いているのかと問う。車や船や飛行機など、命のないものは必ず何者かによって動かされている。そして自力で動いているものは必ず命を持っている。それゆえ、この天体を動かしている何者かが存在する。そして原因にはそのまた原因があり、無限に遡っていくと究極的な第一原因に至る。それが神と名付けられる。そしてその宇宙創造の過程で我々人類が発生した。そしてその人間は意志を持ち、他者に共感する心を持って人の手助けをしたり生き物を憐れむ心を持っている。だから人間は神が造ったものであるし、その善良な心も神が吹き込んだものと言える。だから自然の恵みも人間の良心も神が創造したのであって、神が存在することは疑い得ない。無神論では自然の恵み(自然善)と人の善き行い(道徳善)が説明がつかない。かのニーチェは「神は死んだ」と言ったが、実際は人が死んだのである。
五烏教あるいはゾロアスター教
しかし、神が存在することはわかったとして、それならなぜ世界に悪も存在するのか?という問いは残る。ここでわたしは悪神や魔王の存在を想定せざるを得ない。これはクシュナーと同様の苦渋の選択であるが、自ずと答えは導き出される。こういうと迷信のように聞こえるかもしれないが、これが非常に合理的で納得できるものとなっている。神も手を焼く同格レベルの魔神のような悪の親玉がいて、神の行う善を妨害、破壊している。神はこの宇宙をはじめ、善きことを創造するが、魔神はそれを破壊し、悪しきことを創造する。人には悪意を植え付ける。死や病や老いをもたらすのも、この魔神である。ところで、悪魔の存在証明はそのままこの世の悪、自然悪と道徳悪であるということはいうまでもない。しかし、それをも善神は修復したり、別の善きものに変化させようと対抗策を講じている。この部分が思し召しと言える。この善神と悪神の存在で、世界のすべてが説明がつく。先ほどの原爆やホロコーストや地震や病気、天災(自然悪)と人災(道徳悪)がどちらも説明がつく。要は魔神があちこちで悪さをしているのである。しかし人は自由意志で、善につくか悪につくか選ぶことができる。魔神はあの手この手で人間を悪に引き入れようと誘惑している。その善につく勢力が強いほど、善なる神を信仰する人が多いほど世界は平和になり、最終的には善なる神が勝利して魔神は滅ぼされる。以上、わたしの結論である。ゾロアスター教に限りなく近く、我々の多神教にも近いものがある。ゾロアスター教では、善神はアフラ・マズダー、悪神はアンラ・マンユである。善の側には善なる神々諸仏がいて、悪の側には悪しき邪神や悪霊がついている。非常に神話的で間違ったら迷信とも思われかねない結論に至った。決して妄想ではなく、純粋な理性で思惟した。善神はもちろんわたしにとっては五烏大明神である。五烏神話では鬼神や邪神の存在は説かれていない。これはわたしの独創であり、五烏教の悪神として仏教の魔王・波旬を据えることとする。奇しくも、アフラ・マズダーは翼を広げた姿で描かれている。さらに、アフラ・マズダーは毘盧遮那仏、大日如来とも同一視されていたようである。ゾロアスター教は、今ではインド北部の一部の人々にしか信仰されていないようであるが、類似した思索をした人間は比較的多くいるのではないだろうか。ゾロアスター教徒はイスラム教徒に虐待されたそうだが、どちらがジャハンナムに落ちるのかわからないではないか。ここにゾロアスター教の復興を確認するところである。小烏の神々は「西域」から飛来したが、あるいはペルシアからではなかったのではないだろうか。かかる論は、多くの異論、反駁があるであろう。それでも今のわたしにはこうとしか考えられない。
ここは楽園などではない。パンドラの箱が開けられた世界なのである。
善きことは神様の御業、悪しきことは魔王の仕業なのである。善いことは神様のおかげと考えることで、他者に対しては感謝、自分としては謙虚でいることができる。悪いことは魔王のせいと考えることで、他者に対しては許し、自分としては罪悪感、後悔からの解放がもたらされる。
ゾロアスター教についてのエリアーデの言葉を引きたい。
「ゾロアスター教の改革の本質は、神の模倣(イミタテイオ・デイ)にこそある。人はアフラ・マズダーの例に倣うよう勧められるが、選択はその人の自由である。~彼は思惟によって世界を創造したが、これは無からの創造に相当する。~始原時にこれら二霊は選択をし、一方は善と生命を選び、他方は悪と死を選んだという。~このことは、二霊ー聖なる霊と邪悪な霊ーが本性ではなく、選択によって異なっていることを示している。」
「要するに、善も悪も、聖なる者も破壊的悪魔もともにアフラ・マズダーから生じたのであるが、アンラ・マンユはみずからの意志でそのあり方と悪しき職務を選んだために、「最勝者」は悪の出現に責任があるとは考えられていない。しかし全智であるアフラ・マズダーは、悪霊がどのような選択をするかはじめから知っていたはずだが、それをやめさせようとはしなかった。これは神があらゆる種類の矛盾を超越していること、あるいは、悪の存在が人間の必須条件をなしていることを示しているのかもしれない。」
「根底から完全に新しくなった世界とは、実は、もはや悪魔の攻撃によって穢されることのない新しい創造を示している。」
「マズダー教神学によれば、時間は創造に不可欠であるだけではなく、アフリマンの破滅と悪の一掃を可能にするものでもある。オフルマズドは、実は悪を克服し、絶滅させるために世界を創造したのである。~そのために、もはや宇宙は循環するものではなく、直線的で、始まりがあってやがては終わることになるのである。~人間の魂はオフルマズドのもっとも強力な味方になった。物質の世界では、人間だけが自由な意志を所有するからである。~要するに善・悪を選ぶ自由をもつおかげで、人間は救いを保証されるだけでなく、オフルマズドによる救済の業に協力することもできるのである。」
サオシュヤント=救世主=ザラスシュトラであるが、わたしにとっては預言者、あるいは小烏の神にほかならない。
先のヨブ記において、ヨブは友人たちに「お前が悪いことをしたからだろう」と糾弾される(これがはたして本当に友人であろうか? 少なくとも徳のある友ではない)。そして神に不平不満をぶちまけるが、ヤハウェはご自身でも如何ともしがたい存在について述べる。
「見よ、わたしが君と一緒に造ったかばを。」、「矢もわらくずと見なされ、投槍の騒音をも彼は嘲る。」、「すべての誇り高き獣の王である。」
混沌(悲運)の象徴、原初動物「レビヤタン」は、神も如何ともしがたい存在であり、「見よ、君の望みは空しく、彼を見ただけで人は打ち倒される。」ほどの者であるから、到底か弱き人間の立ち向かえる相手ではない。ヨブ記においても、ゾロアスター教のように、レビヤタンという魔獣を想定しているのである。
それから、五烏大明神は医療神であり、一切の病を除くと誓われていることについてであるが、普通に考えれば世の中に病気はなくなっていない。むしろ現代でも病人だらけである。それはなぜかということは、すでに魔神の存在によって説明された。コロナウィルスという新たな伝染病も流行ったばかりである。しかし、小烏の神の誓願が嘘だった、虚しいものであったということではない。というのは、目覚ましい医学の進歩によって、結核やハンセン病など、過去に不治の病だったものが治るようになったものも多いからである。さらに、それに伴って平均寿命も飛躍的に伸びているからである。死亡率の低下など、わざわざデータなどを示さなくとも論証されるものである。わたしを含め個別的に病気になっている人、今現在病の床にある人はなぜと思うかもしれないが、全体的に見れば神の言葉は真実不虚である。推古天皇の時代から現代まで漸進的に神の約束は果たされているのである。現代でも治らない病気や障害も、いずれ一掃される日も来るであろうし、神の約束はこれからも果たされていくであろう。小烏の神は臨終に「命根長養」と「五臓安寧」の守護神となると誓われたが、事実として長寿と健康をお守りになっているのである。かえって現代は、自殺や孤独死など精神の病で多くの若者が死んでいっている。今後は「心月澄明」も加えた心を支える方面にも力を入れていかねばならない。
空海はその著作で登場人物にこう言わせている。
「体の病気を治療するのには三つの方法によらねばなりません。一つには医者、二つには処方、三つには薬です。病人がもしも医者を敬い、処方と薬を信じ、ほんとうに薬を服めば病気はたちまちに治ります。病人がもしも医者を罵り、処方と薬を信ぜず、すぐれた効目のある薬を服まなければ、どうして病気を治すことができましょうか。仏が生きとし生けるものの心の病気を治されるのも、これと同じことです。仏は医師の中の王のような、教えは処方のような、理法はすぐれた効目のある薬のようなものであります。この道理のとおりに考えめぐらすならば、(仏法というものは)あたかも薬を服むようなものです。教えによって薬を服めば罪を滅ぼし、さとりをえます。」
だから我々は信仰を持って、清らかな心を持たなければならないのである。
哲学者は過去の賢者たちによる神の存在証明を整理している。
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①目的論的証明
自然の合目的性、美、荘厳ということから、世界は最高の智慧をもつ神の創造であるにちがいないという結論を出すのである。すなわち世界にはいたるところに秩序と合目的性があるという一定の経験から出発して、秩序は事物にとって偶発的なものであるから最高存在体の実在を証明するのである。~日月星辰、四時の運行が秩序立ってみごとに行なわれているという事実から神々の存在を論証することは、プラトーンも行なっていたことである。またウパニシャッドの哲人はこの事実にもとづいて不壊なるものの実在することを説いている。神の英知にもとづいて神の存在を論証することは、アウグスティヌスの行なったこととしてよく知られている。
②宇宙論的証明
神の存在の宇宙論的証明は、自然界においてもろもろの運動があるという事実から出発して、原動者ないし自己原因としての神が存在するということを推論するものであり、西洋中世ではトマス・アクィナスなどによって述べられた。
③存在論的証明
聖アンセルムスの主張したものである。すなわち、神は可能なかぎり最も偉大な対象である。さて思惟のある対象が存在しないとすれば、それとまったく類似してかつ存在するいま一つの対象は、より偉大である。したがって、あらゆる思惟の対象のうちもっとも偉大なものは、存在しなければならない。なぜなら、もし存在しないとすれば、それ以外になお偉大な対象が可能となるからである。したがって神は存在する。
④内省的証明
西洋には見出されない絶対者の存在の証明として、シャンカラは絶対者の存在の内省的証明を述べている。
「またブラフマンはあらゆる人のアートマンであるから、ブラフマンの存在することが確定する。なんとなれば、あらゆる人はアートマン(自己)の存在することを意識する、決して「われは存在しない」とは考えない。実に、もしもアートマンの存在が確定していないのであるならば、一切の人々は「われは存在しない」と意識するにちがいない。」
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⑤プラグマティズム的証明
それだけではない。わたしはこれらに加えて、簡単にプラグマティズム的証明をしたい。まことに、神や仏が存在することでどれだけ我々にとって役に立つだろうか? はたして過去の我々の祖先たちが、そういった存在にどれだけ救われてきたであろうか。どれだけの人を死の淵から救ってきたであろうか。役に立つのならば存在するとして何の問題があろうか。ジェイムズによれば、役に立つ考えこそ真理なのであるから。
以上をもって、拙いながらも神の存在証明としたい。神の存在はもはや自明の理である。
ちなみに、哲学者は創造神の存在を否定している。とはいえ、彼はインド哲学の神の存在に好感を持っていると思われる。ただ彼は、この世の中はあまりにも不条理であって、悲惨な運命を辿る人が多いという現実に目を背けない。そして西洋の弁神論を一蹴している。しかし、わたしはあくまでも小烏の神のしもべであるから、どのような不条理があっても、自分がどれだけ不幸であっても愚直に神の存在を信じる。
ヨハネの黙示録の言葉を送ろう。最終的にはこのようにすべての病は癒やされる。
「~その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。もはや、呪われるものは何一つない。~」
この命の木は、わたしにとっては、小烏の御神木「陰陽二股に分かれた杉の大木」にほかならない。
チャーリーブラウン「雨は正しい者にも不正な者にも降る。」
この世に悪があっても神は存在する。なぜなら、悪をもたらしているのは魔神だからである。たとえば、光や雨が善人にも悪人にも降り注ぐように。そのように、恵みも災いも受け入れられるものである。それゆえ、善なる神は存在する。
小烏の神は、必ず魔王波旬との最終戦争に勝利する。そして我々は帝の皇軍であり、あなたは五烏大明神の神兵である。
