第二章 神の頷き信仰
ユゴー「人間社会はその外部にいる者には恐るべきものであり、その下にいる者には凄まじいものなのである。」
ルター「孤独とうつ状態はすべての人間にとって、特に若い人にとって毒であり、きわめて有害なのです。」
スヌーピー「ほんとのところ、きみはすごく必要とされてる。」
孤独にある人よ、聞いてほしい。あなたは決して独りではない。小烏の神はいつもあなたのそばにいて、訴えに耳を傾け、うんうんと頷き、守ってくださっている。これはわたしの妄想ではない。教証になるが五烏経において、小烏の神が「わたしは死んでもあなたがたの守護神となる」と誓願されているからである。無常なる人間が誓っているのではない。常住なる神様が誓われているのである。それゆえ、その言葉は永遠不朽であり、よりどころとするに値するものである。それだけではない。宮島の女神様も衆生済度の大願をすでに成就されているのである。小烏の神を各々信ずる神仏にしてもいいし、死別した家族やパートナー、ペットなどにしてもいい。とにかくあなたは独りではなく、霊界から見守っている存在がいるという認識を持つことが大切である。普通に人とのつながり、他者とわかり合っていくこともたしかに大事なことではである。けれども、人間関係はいつも円滑にいくとは限らない。それぞれ価値観や思想は違うし、時には翻弄されたり争いになることもある。そこで、もし全くの孤独状態、誰からも必要とされず、人から裏切られたり社会から見捨てられたりしたとしても大丈夫なようにこの教えを説きたい。かくいうわたし自身がそうであったのだから。わたしは一人暮らしをしているが、加えて仕事にもつけず非常に淋しい思いをしていた。社会から分断され、まさに昨今増えている孤独死寸前であった。抑うつ状態で本当に体が動かなくなるのである。そこで支えになったのは、生来の小烏の神への信仰であった。自分で描いた小烏の神々の絵に向かって祈るというより呻いていた。義理人情というものが廃れて久しい。周りの人間は意外と冷たく残酷なものである。恥を忍んで助けを求めても、あまり助けてはくれなかった。わたしはひとり呻吟していたのである。
わたしは神に祈るというような綺麗なことはしていない。というよりできなかったというのが正直なところである。それはこのような場合、つぶやき、うめき、叫びといったようなものになる。神にはありのままの自分をさらけ出せる。綺麗な祈りでなくてよいのである。このような極限まで追い詰められた状態に置かれて、信仰のない人はとても自分を支えきれないと考えられる。だから信仰を持つことを勧めるし、信仰は不可避であると痛感したのである。孤独にある人、自殺を考えている人、すべての絶望している人に信仰を持ってほしい。神はあなたを必要としているから命を与えられている。諸行無常であり、地上のものは脆く、よりどころにするには頼りないものである。天上の揺るがぬ存在をよりどころにしてほしい。
カントはこう言っている。
「感覚器官によって感知できないもの存在は知ることができない。神の存在を確信することは絶対に必要だが、必ずしも証明しなければならないわけではない。」
我々は五感しか持っていない。けれども、もし五感以外の感覚器官があれば、感知できる存在がいるかもしれないのである。たとえば、犬の嗅覚は人の何倍も優れているのは周知の事実であるし、コウモリの聴覚もまたそうであるという。また、アフリカ人の視力は、我々先進国の人間よりも遥か遠くを視ることができるという。そのように、我々の常識を一度疑ってみなければならない。巷ではスピリチュアルという言葉が定着しているが、半分侮蔑の意味合いで使われている。しかし、人間には能力に各々差異があるのであるから、霊的な能力に優れた人たちがいても全くおかしくはない。わたしにはそのような特殊能力はないが、一概にそういった事柄を否定はできないと考える。その領域を太古より我々は信仰してきたのであるから。また、わたしも人々に共感し、苦楽を分かち合いたいと思うが、所詮ただの人間であって、許容するのにどうしても限界がある。しかし、神には限界がない。いわゆるキャパが大きく、許容量は無限である。大いに愚痴を吐いたらいい。すべて受け止めてくださる。
先述の神の御誓願のリフレインである。
「わたしの名は五烏といい、東城国において十二代の帝に仕え、数万年の齢を保っている。今際の時までも老病衰というものを知らなかったけれども、盛者必衰の始めあるものは必ず終わりあり、という世界の掟は逃れることができない。しかし、わたしの魂は中有に留まり、あなたがたの命根長養の守護神となろう。わたしの姿が青黄赤白黒と五つの色を現すことは、すなわち五智如来であり、五行であり、五臓を守るというわたしの神性の表れである。人間はもちろん、すべての生きとし生けるものまで、もろもろの病気わずらいを癒やして、あなたがたの五臓安寧の守護神となろう。」
以上が五烏大明神のご遺言である。この小烏の神の御誓願が五烏教の根幹である。わたしたちは、この御誓願を固く信じてよりどころにしなければならない。絶望にある人よ、どうかこの尊き御誓願に一縷の望みを託してよみがえってほしい。五烏教の中核は、神の臨終の御誓願を固く信じることである。すなわち、万病を癒す守護神となるというお誓いを。体にしても心にしても、病に苦しむ者のための教えなのである。小烏の神は、神でありながら病に倒れられ死なれた。「神の死」という究極的な思し召し、それは小烏の神は病や苦難にある者と共にあるという神の深いお考えによるものである。それは、神があえて天界には昇らず、中有という現象界に近い世界に留まることを選択されたことに如実に示されている。神は苦しむ者と共にある守護神、我々と共に苦しんでくださるお方なのである。なるほど、病気は簡単には治らないかもしれない。けれども、治るまでそっとそばにいてくださるお方、それが小烏の神である。これは、人々が忌避する癩病患者に寄り添ったアッシジのフランチェスコや日本の忍性が神の御心を最もよく表している。また、病苦にある者は「神の似姿」を現している。世の中には依然、不治の難病も存在する。ムキになって病と闘うよりも、病気や障害があってもよいと受容することも有益な考え方である。病のうちにこそ、神は近くにおられる。これが我々の守護神になるとお誓いになられた神の尊い御心である。すなわち、小烏の救いとは不在とも思える中の神の臨在、神がいつもどんな時もそばにいてくださるということにほかならない。神の眼差しによってのみ立つことができるようになるように。この小烏の光に満たされることが救いなのである。
「悲しいかな、最大の試練、いや、もっと適切にいえば、唯一の試練とは、愛する者をうしなうことなのである。」
こうユゴーは嘆息している。
大切な者を喪失した人よ、聞いてほしい。あなたは置き去りにされたわけではない。五烏神話において、厳島大明神が五烏大明神を亡くされたことを覚えておいてほしい。五烏大明神は女神様に先立つにあたって、ご自身の魂はあえて天界には昇らず、中有に留まって、我々の守護神となると誓われている。中有とは現世に近い霊界のことである。そこから厳島大明神を守護されているし、我々すべての衆生に向けての御言葉でもある。厳島大明神は死に際して「御歎き浅からず」であったが、中有界からご自分が守られているという安心感があったからこそ、その後も過度に落ち込むことなく衆生済度の道を邁進できたのである。ちなみに、現在の宮島・厳島神社の入り口の灯籠の上には、一羽のカラスがとまっている。とりもなおさず五烏大明神の御心を反映したものである。したがって、死別や離別、親ロスや子ロス、パートナーロスやペットロス、たとえ大切なものを喪失しても、過度に嘆く必要はない。その者たちは中有界の優しい神の翼に抱かれ、あなたのすぐそばでずっと見守っているのであるから。むろん、そのときはあまりの衝撃と悲しみに耐えられないであろう。わたしもそうであった。うつ状態になり、体もまともに動かなくなった。まさに生ける屍と化していた。けれども、それも思し召しであって、同じような悲しみにある人の気持ちがわかるようになるし、信仰にも目覚める可能性もある。最初は大いに嘆き悲しみ、悲しみ尽くせばいいが、大事なのはいつまでも感情に飲み込まれすぎないことである。喪失の苦しみは完全には癒えることはない。しかし、悲しみを抱えつつもいつか大丈夫になるときが来る。
死と喪失とは、世界最古の書である『ギルガメシュ叙事詩』がすでに物語るごとく、人類の大きなテーマかつ問題である。わたしは現在、岩国市という街に住んでいるが、これは岩の上に国を打ち立てろということであると受け止めている。それは新約聖書のキリストの言葉、砂の上に家を建てるな、岩の上に家を建てよという喩え話からきている。意味するところは、地上の儚い朽ちゆく存在ではなく、天上の常住で永遠の存在をよりどころとせよということである。
わたしは霊夢、霊的な夢を見ることが多く、つい最近も夭折した同級生が夢に出てきて、わたしにレンゲの花束を渡しに来てくれた。その子とも霊界と現世にまたがってつながっている。我が子を失ったご両親の悲しみは筆舌に尽くしがたいものがあったと思われる。実際に神ご自身が出てこられたこともある。大鴉となって太陽が燦々と照り輝く青空を優雅に舞い、わたしの肩にとまってこられた。また以前も書いたが、啓示と呼びうる夢も観た。それは子供の頃から何度も見てきた夢で、三十歳を超えて再び観たものであり、全く同じ内容である。すなわち、小烏神社の井戸がある小道から上に登ると、現実にはない高い山が続いてゆき、青く澄んだ空のもと、アルプスのような美しい山を登っていく。頂上には大きくて長い階段が杉のような大木の林に囲まれて続いており、登り切ったところには大きな門がある。門の向こうには靄が立ち込めていて、奥は光り輝いている。そこに入ったらいつも目が覚める、というものである。おそらく、わたしの死後はこの道のりを歩いて、天界に登って行くと考えられる。そして、この天の門の向こうで神の御前に立たされるのである。思うに、この夢ないしヴィジョンは、わたしがかつての生で見てきた光景と考えられ、プラトンのいう想起(アナムネーシス)、すなわち再び思い出したに過ぎないものである。他にも、小烏にまつわる霊的な夢を何種類も観ていて、自分自身でも驚いている。わたしは長らく哲学を志し、霊感や霊性などとは無縁だと思っていたが、そういった世界もあるのだと実感している。現世のものばかりにとらわれず、幽世のものにも目を向けるべきである。
わたしは儚く夭折した者たちに美を感ずる。うたかたの生、しかしそれは生前が美しくなければならない。歌手の坂井泉水、プロレスラーのハヤブサ、山口の金子みすゞや中原中也、女哲学者の池田晶子も含まれるであろうか。そしてこの同級生と飼っていたオカメインコである。そして何よりも小烏の神ご自身である。彼らを通して「美そのもの」に至ることができると考えている。
その「不死鳥」ハヤブサ(江崎英治)の決め台詞である。
「諦めなければ、夢は終わらない。お楽しみはこれからだ!」
彼は試合中の事故で全身不随となったが、懸命にリハビリを重ね、ついに杖をついて再びリングに上がった。事故前の華麗な技もさることながら、重い障害を負っても挫けずに頑張った姿は極めて美しいと言わざるを得ない。それゆえ、わたしたちも、たとえ障害を負ったとしても諦めなければ夢は終わらないのである。これは現在闘病中の高山善廣氏にも言えることである。
春日大社宮司・葉室賴昭はいう。
「この世の中は、あの世におられるご祖先の人びとの生活とつながっているんだよ。だから、あの世にいらっしゃるご祖先がしあわせにならなければ、この世はしあわせにならないんだよ。」
「日本人は古来から祖先の、夜見の国での幸せがあってはじめて現世の我々の幸せが存在すると考えておりました。それゆえ、この世を夜見の国の現世(うつしよ)と言ったのです。死者の幸せを願わずして、どうして現世の幸せがあるでしょうか。」
「往生できなかったらどうなるかというと、いわゆる幽界というところをさまよう。さまよっていると苦しい。それで、あの世ではなくてこの世に助けを求めてくるのではないか。そうするとこの世にいる人は、いろいろと不幸な目にあう。私はそういうことだと思います。」
現代人には迷信と感じられるかもしれないが、長い間祖先たちが信じてきたものを、決して賢くなどなってはいない我々が簡単に捨ててもよいものであろうか。これは仏教でいえば「顕幽一如」ということであり、あの世にいる者たちを想って供養しなければ、この世にいる我々の幸せもないということである。霊界に想いを馳せるとき、大事なのは神仏や他界した者の御心を推しはかるということである。それは決して独善的な邪なものとはならないであろう。必ず自らの良心に即したものとなるであろうから。
小烏神社の麓にお地蔵様があるのだが、そこに毎日通ってお世話していたおばあさんがいた。お地蔵様におぶく(ご飯)をおあがんなさいませ(召し上がれ)と供養されていた。すでに他界されているが、とても幸せそうにしていたことを覚えている。体が衰えているため小烏神社には登られないが、下から深々とお辞儀をされている敬虔な姿を覚えている。わたしのような衒学的な人間よりも、よほど神仏に近く気に入られていたお方であったと思う。世の中、女性の方が篤信家が多いように感じる。男性はどうしても社会的圧力から逃れられない。「鰯の頭も信心から」という。人からどう思われようが、自分自身がそれを信じることで救われているのならそれでよいのである。
本章では、マズローの欲求段階のうち、下層二つは政治の範疇であるが、上層二つ、愛情欲求と承認欲求を地上のものによらず、信仰によって満たすことを目指すものである。ユゴーはいう。虐げられた者は愛情と尊敬に飢えている、と。これは主人公ジャン・ヴァルジャンが出所して、社会から爪弾きにされているうちに慈悲深いミリエル司教と出会い、歓待を受けたときのユゴーの一言である。
「司教がそのあなたという言葉を、優しい重みのある、いかにも上品な声で言うたびごとに、男の顔は輝いた。囚人に対して言わるるあなたという言葉は、メデュース号の難破者に対する一ぱいの水のごときものである。はずかしめらるる者は他人の尊敬に飢えている。」
またユゴーはこういう。
「愛するということは、ほとんど、信じることである。」
わたしたちは神を「信じる」というが、むしろ神がわたしたちを信じてくださっているのである。なぜなら、神は衆生を愛されているから、当然わたしたちを信じておられることは疑い得ないからである。だから、あなたは神に愛されて信じられているのである。我々凡夫は、信じるから愛されるべきだと考える。しかし神は、無条件に愛されるから我々が時に神に違背しても赦されるのである。したがって、たとえ人や社会に必要とされなくても、神という聖なる存在に信頼され、必要とされているから嘆くことはない。それは、本章の冒頭で引いたスヌーピーの言葉で示したとおりである。
古代ローマの神学者・アウグスティヌスは、人の心には大きな空洞がぽっかり空いていて、それは究極的には神によってしか埋めることができないと述べている。わたしは彼のようなリベラルアーツを修めたエリートではない。むしろアウトローでありドロップアウト者である。ただ、図書館の世界史の本で初めて彼のことを知ってから、ずっと共鳴するものがあった。わたしにも心の空洞を埋めた日があった。それは願って与えられるものではなく、ふと訪れるものであった。小烏神社にはコミュニティがない。信奉会というものが一応あるが、みな信仰というより当番が回ってきたからやるというような行事やしきたりのようなものである。それゆえ、わたしの信仰は孤独なものであった。独身ならぬ独信である。仏教では法友というが、信仰を分かち合える仲間がいないというのは淋しいものである。そこで考えたが、たとえお寺や教会に行っても、ご本尊が違うし結局人に依存している。逆に小烏の信仰者を見出したとしても、その人に依存していたらそれは信仰ではない。愛情欲求、もしくは自己愛を信仰によって満たすことが急務であった。
小烏の神が守護神になるとお誓いになられている。神が誓っているのだ。だから尊いのである。ただの人間が誓ったのではない。それを信ぜずしてどうする。神から愛されているということは五感では認識できない。ただ神の御言葉と霊的に独りではないと信じるのだ。小烏の神の魂は中有に留まって、わたしをずっと見守っている。いや常にそばにおられる。たとえ小烏のもとで暮らしていなくても、日本中・世界中どこにでもおられる。刑務所や閉鎖病棟にもおられる。なぜなら、神は我々の内奥に宿っておられるからである。このようにわたしは自分自身に言い聞かせた。
わたしは今まで心の穴を有象無象、魑魅魍魎で埋めてきた。わたしの最大の心の病は、実に人に依存する性格であった。それこそ偶像崇拝である。その難病はまさに医療神である小烏の神が治した。長年の病を神が御誓願通り除かれた。ある意味、飾り物であった信仰が、ようやく真の信仰となったのである。本当の孤独に耐えられる者は最強である。よりどころをしっかりと神とし、心を聖なるもので満たさなければならない。移り変わる人の心ではなく、神仏の永遠の御心をよりどころとしなければならない。犀の角のように、ただ独り歩め。
「法に依るべし。人に依るべからず。」
法然が好んだという『ダンマパダ(法句経)』の言葉である。それをわたしはこう言い換える。
「人に依ることなかれ。神に依れ。」
けれども、心の清らかな人々との交流はたしかに救いになる。その場合の注意点を述べておきたい。
『ブッダの瞑想法』から引く。
「~克服の六番目は、善いものに触れることです。~最も強力なのは、法友です。自分よりも優れた、半ば師であるような友、常にこちらのためになり、成長することを心から考えてくれる友、高貴な友、師友、ダンマフレンドです。心のきれいな徳のある人にまみえることは、強力にこちらの心が聖なる方向に引き上げられます。」
また、『アリストテレスの人生相談』から引く。
「「持つべきものは友である」~劣悪な人々のあいだの友愛は、劣悪なことを共にすることにより、お互いが似てきてしまい、互いに邪悪になります。これに対し品位ある人たちの友愛は高尚であり、交わりとともに友愛が深くなり、お互いに感化し矯正し合うことによって、どちらも、より優れた人に成長します。ですから、自分自身が善くなるためには、善き友を持つことが必要です。」
「アリストテレスは、仏陀とは異なって、一人で歩めとはいわず、「幸福になろうと思うならば優れた友を持つべきだ」としています。」
『十訓抄』から引く。
「ある人が言うには、「人は良き友と出会うことを、心より願うべきである。」「まっすぐ生える麻の中に育つ蓬は、矯めなくても、自然とまっすぐ成長する」という喩えがある。蓬という草は伸び方はまっすぐではないが、麻の間に混じって生えていると、曲って伸びる余地がないゆえ、不本意ながらまっすぐ伸び育っていくのである。心のねじけた人であっても、正しくきちんとしている人の中に交じっていると、そうはいってもやはりあれこれと気遣うことが多くなり、自然と正しくなるものである。」
『自殺の哲学』からも引く。
「釈迦は「アーナンダよ、そうではない。善き友をもつこと、善き仲間のいること、善き人々に取りまかれていることは、清浄行の全体である」と答えます。」
これは、善き人々と平穏に過ごすことを目的としたエピクロスの説くアタラクシアというものと一致する。
「あなたが追いつめられているのは、そのような情動影響力を持っている人が周りに誰もいないことに原因があります。皆、世間で流布している考えかたを押しつけてきているだけなのです。あなたのこころに感動を介してアプローチする人がいないことが、あなたの孤独感のすべてです。」
「弱い人間が自殺するのではなく、悩みや苦しみを周囲と分かち合えない人間が自殺するのです。~弱さや苦悩を分かち合えない家庭や社会の文化を変える必要があるのです。」
「現代がテロの時代であるのは、世界を捨て切ってしまった人間の怖さに気づかない人々によってもたらされています。」
これは「論破王」ひろゆきのいう「無敵の人」のことである。
ゲーム『メタルギアソリッド』より。
グレイフォックス「追い詰められた狐はジャッカルより凶暴だ!」
どうしても善き友が見つからない場合は、あなたはそれを霊界に求めてほしい。かくいうわたしもその一人であるから。善き友を持つことは、いわば椅子取りゲームであり、善き人にはすでにふさわしい善き友、善き夫や妻がいるものである。そのゲームにわたしは負けただけだ。しかし、かといってどんな椅子でもよいわけではない。汚い椅子に座るくらいなら、むしろそのまま突っ立っていた方がよい。汚い椅子とは、心の醜い、魂の汚れた者どもである。そのような者どもと交わるくらいなら孤独の方がよい。わたしは散々汚されてきたが、幸い心の清浄さは保っている。もしあなたに善き人が現れないなら、霊界の美しい存在を見てほしい。善友争奪戦、椅子取りゲームに敗れた者は、そこに救いを求めるしかないのである。小烏の伝説が上品なものであり、それをアイデンティティにしているからか、わたしには下品な連中が耐えられない。
「弱きを助け、強きを挫く」というが、挫くべきは悪しき強き者であって、善き強き者は挫かなくともよい。また、助けるべきは善き弱き者であって、悪しき弱き者は助けなくともよい。ウルトラマンは倒さなくてもいいし、助けるべきはピグモンである。ゼットンは倒さなければならないが、カネゴンはどうであろうか、やはり助けるべきであろうか。ここでいう善悪とは、心の清濁のことである。本書の内容も、心の歪んだ者たちには届くことはないであろう。社会の下層で恨みや妬み、呪いの言葉ばかり吐いている者どもの世界にいるわたしの経験上そう思う次第である。この道義心が廃れた神なき時代、社会の上層、ミゼラブルの対義語「殿上人」の世界もさほど変わらないであろう。むしろそういった余裕のある成功者たちでさえ、道端に倒れている人をも助けない時代となった。けれども、そういった性根の捻じ曲がった者にも、それなりの理由があるわけであって、最終的にはすべてを透徹した神が公平に裁きを下される。神がすべての業を是正されるときが来る。我々はそれに備えて、できるだけ身を清めて、愚かな生き方を変え、魂を浄化して慎みを持って生涯を終えねばならない。わたしはたまに、己や世界の業縁のようなものが見えるときがある。抗いがたい何事かが存在しているように感ずる。現代社会を共有する我々のつながりも含めてだが、善きも悪しきも祖先や前世から引き継いだものが、現世に生きる我々衆生の世界で複雑に絡み合って現れているように思える。恐ろしくもあるが、何か仕方ないことを悟ったようにも感じられる。
葉室賴昭はこう言っている。
「神のお恵みはみんな平等にいただいている。でも、ある人は不幸になり、ある人は幸せになる。なぜか、感謝ですよ。神の波動は感謝しなければお恵みとなって出てこないんです。」
また「素白の心」としてこういう。
「~心で乱反射すると我欲のものが見えてきますが、無我になって理屈を言わないで全感謝すると神さまが現れてこられるのです。」
感謝と懺悔は宗教の基本であり本質である。懺悔して赦されていることに感謝するのであり、こんな自分でも赦されるという感謝の心から懺悔するのである。こう書いてはいるが、実のところ自己正当化や虚栄心を拭い去れていない自分がいる。よくよく内省して戒めるべきである。
若い頃、錦帯橋のあるお寺でお坊さんを訪ねたことがあったが、何か一言お願いしますと頼んだ。そうしたらその方は、「それは感謝することです」とお答えになられたのをはっきり覚えている。
記憶が朧げだが、『アラビアンナイト』のシンドバッドの冒険で、ある商人がシンドバッドに命を助けられ、感謝する際にこう言っていた。
「この方を通して、わたしを助けてくださったアッラーに感謝いたします。」
まことに敬虔な祈りであり、霊的な感謝の仕方であると思う。また別の箇所にはこうある。
「神さまがシンドバッドの手をとおして、贈り物をあたえてくださったことを喜んで、感謝の祈りをささげることを忘れませんでした。」
親鸞がいうように、ひとたび信心を得たならば、すでに救済は決定しているのである。これはカルヴァンの予定調和説と類似するものである。個人が救われる如何は、神の恩寵によって決められているのである。
ところで、わたしはかつて、プロテスタントの教会で聖書の学び研究会に通っているときに、恩師の牧師より大切な教えを伝えられた。自分で聖書を読むだけではわからなかった、キリストが十字架にかかった深淵な理由を聞いた。牧師によると、キリストが十字架にかかったのは、人類の罪を赦すためだけではなく、最も苦しんでいる者たちと共にあるためである、ということである。というのは、キリストが十字架上で死の間際に、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」、すなわち「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶叫されているのは、神も仏もないと思うくらいの大きな苦しみを受けている人たちの気持ちを知るために、神でありながら自らの身を人間にまで低められてなされていることだからである。これこそわたしの最も問題とすることであった。わたしは神も仏もない、神なんかくそくらえと、まさにキリストのように何度も絶叫してきたからである。これは究極の自己犠牲であり、最も強力な弁神論と考えられる。この話を聞いて、ひきこもり時代の阿鼻叫喚で信仰を失ったわたしの壮絶な苦しみは癒やされた。神はわたしのことを十字架の上で思ってくださっている。むしろ神だからこそ苦しみ、大声で叫ばれているのである。神の叫びとわたしの叫びは一致している。神は常にわたしと共にある。神はわたしのために叫ばれている。
ちなみに、キリストは十字架で絶叫されたが、それと呼応するかのように小烏の神も臨終に「苦声」をあげられている。それは単なる苦しみの叫びではなく、我らを想うがゆえの叫びなのである。すなわち、五烏大明神もキリストと同様に、本来苦悩を知らぬ如来でありながら、朽ちゆく肉体を持った五色の烏として垂迹され、地上の苦しみを経験された。さらに両者ともに、ご自分が苦痛の絶頂にあるにもかかわらず、我々衆生のことを案じておられるのである。キリストは群衆の罪を憐れみ母たちを慰め、五烏大明神はすべての生きとし生けるものへ慈悲の御心を表され、尊い救いの御誓願を遺された。これこそ、「インマヌエル(神は我と共にあり)」、あるいは「随縁即仏」と言わなければならない。儚い人間たるわたしは、この極限の自己犠牲の御心に跪くのである。
旧約聖書・イザヤ書から、まさしく小烏の神の御心と一致する箇所を引く。
「わたしは、あなたを地の果てから連れ出し、地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。「あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、捨てなかった。」 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。見よ。あなたに向かっていきりたつ者はみな、恥を見、はずかしめを受け、あなたと争う者たちは、無いもののようになって滅びる。あなたと言い争いをする者を捜しても、あなたは見つけることはできず、あなたと戦う者たちは、全くなくなってしまう。あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける」と言っているのだから。~」
『ハイジ』のおばあさんはいう。
「よくきいてちょうだいよ。だれにもいえないような苦しいことのあるときは、天の神さまに申し上げて、助けてくださいっておねがいするものよ。なぜって、神さまは、わたしたちのどんななやみごとでも、かならず助けてくださるんだからね。」
あなたに小烏の神が御顔を向けて、こよなき平安を賜り、ご加護があることを祈る。
第三章 畏れ慎む信仰
ギリシアの農民詩人ヘシオドスは次のようにいう。
「悪しきことはいくらでも、しかもたやすく手に入る。それに通ずる道は平らかであり、しかもすぐ身近に住む。」
ナーガールジュナ(龍樹)は若気の至りの過ちで自戒する。
「欲は苦しみの本であり、もろもろの禍の根である。徳を傷つけ、身を危うくするということは、皆ここから起こるのである。」
『アーサー王の死』より。
アーサー「いったん後退したところで面目を失いはせん。勝ち目のない戦さに踏み止まる騎士は、愚かと言わねばならん。」
ラーンスロット「いいえ、いったん面目を失えば、もう取り返しはつきません。」
「落ちぶれて 袖に涙の かかるとき 人の心の 奥ぞ知らるる」 詠み人知らず
わたしは多くの罪を犯した。自然法においても人為法においても、戒律においても法律においてもである。ここでそのすべてを詳らかにするのはためらわれる。今のわたしは、アウグスティヌスが『告白』において自分の罪を赤裸々に公開しているような心境には至れていない。かといって、荘子のような恥も外聞も捨て切った世捨て人のような境地にもない。しかし、各人のしたことというのは、ただ神と、ほかでもない自分自身が見ているのである。ともかく、わたしには大いに懺悔せねばならぬことがあり、それは平家物語において、平重衡や熊谷直実が己が罪を悔い、法然上人に泣きついたようなものである。彼らにとっての法然上人が、わたしにはとりもなおさず小烏の神なのである。
バルジャンは自問自答する。
「天国にいて悪魔になるのか、それとも地獄に戻って天使になるのか。」
わたしを悩ませたのはここであった。良心とエゴイズムの狭間で懊悩し、ついに罪を犯した。
ユゴー「光の住人は、闇の住人にたいしても涙を流すのである。」
ルター「天国はそこに悪魔が支配するなら喜ぶことはできないし、地獄も神さまが支配するならば悲しくはないのです。」
わたしがいたのは、悪魔が支配する天国であったのか、神が支配する地獄であったのかはわからない。全く信じられないことだが、神の愛にサタンが罪を混ぜたのである。ダンテの『神曲』において、地獄の最下層でサタンに喰いちぎられている大罪人は、キリストを裏切ったイスカリオテのユダと、カエサルを裏切ったブルートゥスとカッシウスである。わたしはその光景が非常に印象的で、人間が犯す罪の中で最も重いものは、真実の愛を裏切ることだと認識していた。しかし、それが仇となったのである。わたしは神の申し子なので、天罰覿面であり速やかに罰が下る。時間の差異はあれど、誰でもゼウスの雷霆が落とされるときが来る。そうして魂の責苦に苛まれるときが来るのだ。
同郷の中原中也の「冷酷の歌」が印象深い。長いのですべては引かないが、誰でもこのようなときが来る。
「~理由がどうであれ、人がなんと謂え、悲しみが自分であり、自分が悲しみとなつた時、
人は思ひだすだらう、その白けた面の上に 涙と微笑とを浮べながら、聖人たちの古い言葉を。」
ルーミーの詩を引こう。
「天使は知の故に救われ、禽獣は無知の故に救われる。両端の間にむなしく争いつつ、その性ゆえに人は佇む。」
しかしながら、天国にいる天使より、地獄にいる天使の方が美しい。
ここからわたしは多少厳しいことを述べるかもしれない。ここまでの三章で魂のトリプルケアを目指しているが、本章は若干耳の痛いものになるかもしれない。けれども、あなたは自分自身に目を背けないでほしい。神仏は罪のある者も決して見捨てはしないから。愚かにも神や自分自身さえも見捨てるのは、常に我々自身の方なのである。
五烏教は清らかさ、純粋さ、清廉さを重んずる。心の汚れた人は神に救われることはない。わたしはあなたに要領よく世間を渡っていく老獪な人間になってほしくない。たとえこの世で栄耀栄華を誇っていても、死ぬ時はみな地位にしろ財産にしろ、この肉体さえも、ことごとく剥奪されて、丸裸になってあの世に行くのである。だから、現世にあるうちはできるだけ神を畏れ慎んで人の道を守って生きなければならない。人間には性格に従って、さまざまな煩悩が燃え盛っている。いかに世間は心の汚い人が多いことであろうか。人の悪口・陰口・噂話を好む人間の多いことが非常に嘆かわしい。多くはルサンチマンからの聞き苦しい言葉である。他人の不幸が蜜の味なら、他人の幸福は彼らにとっては毒のようなものであろうか。
ユゴーはこう述べている。
「彼らは多量の燃料を必要とするが、その燃料とは、なんと身近にいる人びとなのである。~意地悪な人間には、腹黒い幸福というものがあるのだ。」
かような人間はごまんといる。他人の噂話を燃料として話に花を咲かせ、快楽を感ずる邪悪な人間が。信じられないことに、彼らは人の不幸を笑って娯楽にしているのである。実に悪魔的な精神であり、穢らわしい人間の性と言わざるを得ない。それはSNSなどが発達した現代社会において余計に助長され、顕著なものとなっている。「人を呪わば穴二つ」というように、言った言葉は必ず自分に返ってくるのである。むろん、そのようなことはあなたに望むところではない。「口は災いの元」という。邪念を持たないよう、よくよく注意されたい。
親鸞が言っているように、自分は善人だと思っているうちは神仏の救いはない。自分が善人で正義だと思っていることが、自分には罪はないと思っていることが、とりもなおさず罪だというパラドクスである。そういう意味での善人は、善人ではなく面の皮の厚い悪人なのである。それゆえ、彼は有名なこの文句を言ったのである。
「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや。」
相手のことを少しも理解しようとせず、自分が、自分たちが正義だと思っているうちは神はあなたを何とも思わない。これはあなたを非難しているわけではない。かつての自分への自戒を込めて言っているのである。自分は悪人・罪人であるという自覚を持ったときに、初めて神仏はわたしたちに御顔を向けてくださる。デルフォイの神殿に「汝自身を知れ」と刻まれていたのはこういう意味である。しかし、神は憐れみ深いお方なので、心から反省し悔い改める者には蜘蛛の糸を垂れてくださる。どれだけ罪業が深くても、心の底から懺悔すれば神はお赦しくださる。それはここでわざわざわたしが論証しなくとも、いにしえの聖人たちが証明していることである。そして、何らかの懲らしめを受けること、天罰だと思えることに遭遇することは、ソクラテス=プラトンが言っているように、魂にとっては矯正となっているのであって、本人には辛いかもしれないが救済の手立てである。我々には歯を食いしばって耐えねばならぬときがある。
孔子「諸君はすべてのことの成否を、自分自身の責任だと覚悟してほしい。ゆめ他人のせいに擦り付けてはならぬ。」
わたしが不幸になったのは罪を犯したからだ。せめてゴルゴタの丘の悔い改めた罪人の方になろう。
つぶさに過去を見つめていくと、わたしが不幸になったのは自分の責任でもあり、人や環境から害されたせいでもあり、両者が複雑に絡み合ってそうなっている。自分が傷つけられたら心が傷つくが、人を傷つければいわば魂が傷つく。その魂の傷の方を神はご覧になるのである。わたしのような凡夫・罪人にも、神は救いの御手を差し伸べてくださっている。人はいつからでもやり直せる。神はそれを願っておられる。涅槃経では「一切衆生悉有仏性」といい、すべての生きとし生けるものは「仏性」、すなわち誰でも仏になりうる可能性を持っているといわれる。だから、たとえ過ちを犯したとしても、絶望するには早い。神はやり直しを手助けしてくださる。ただ、あまりにも魂の傷が深い者はゾロアスター流にいうと、チンワト橋を渡れず溶岩の中に投げ込まれる。イスラム流にいうと、ジャハンナムの業火の中に投げ込まれる。どういった者どもかというと、現代風にいうといわゆるサイコパスであり、涅槃経的にいうと「一闡提」といわれる仏にも救いがたい極悪人である。彼らは良心というものを持たず、自分の非を認めることはなく懺悔の心も起こらない。しかれども、神はすべてを見通されておられ、どうしてそのような悪人が生まれたのかをご存知である。そこには、親鸞がいうところの「宿業」といったものがあるのである。なおかつ慈悲深いお方であるので、地獄で懺悔の心を起こせば蜘蛛の糸を垂れてくださることもあろう。懺悔より重みのある言葉に「慚愧」というものがあるが、あるいはそこまで至るならば。かのカンダタやユダのように。
孔子「自分の間違ったことに気づきながら、あくまで非を通そうとする人がある。そこに過失が完成される。」
ブッダ「懺悔の心が起これば、もはや罪は罪でなくなるが、懺悔の心がないならば、罪は永久に罪としてその人を咎める。」
『自殺の哲学』の無所住はいう。
「この世には善人面をする「悪人」と、自覚した「悪人」と、救いを求める「悪人」の三種類がいるだけです。あなたは善人面をしようとするから、落ち込むのです。」
葉室賴昭は厳しくいう。
「努力しない者は仏さまでも救えない。自分で目覚めて、努力してよみがえろう、更生しようとする人だけが仏さまに救われるわけで、好き放題して地獄に落ちていった人は仏さまでも救えない。」
理趣経からゆるしの教えを聞こう。
「金剛杵を手にする者よ。もしもこの四つのものを生み出だす教えを聞いて、本経を声をあげて読み、教えを受けおぼえるならば、たとえ今まさに量り知れないほどの重い罪を犯したとしても、きっとよくすべての迷いの世界である悪しき所を超越して、中略、まさしくさとりを得る場所に坐して、速やかによく無上の正しい覚りの境地を体得することができる。」
人が過ちを犯す多くの原因は、欲望と怒りである。怒りの原因は欲望、あるいは欲求が満足されないことからくる。映画『マトリックス』で、ある男がネオに言っていた。「人間は欲望と恐怖に支配されている」と。なら求めず、あきらめればいい。セネカの言葉を引きたい。
「幸福な人とは、欲望も覚えず、恐れも抱かない人であるが、ただし理性の恩恵によってそうであるような人である。」
『スッタニパータ』から引く。
「蛇の毒が身体の隅々に広がるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者は、この世とかの世とを共に捨て去る。蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。」
「「これは執着である。ここには楽しみは少なく、快い味わいも少なくて、苦しみが多い。これは魚を釣る釣り針である」と知って、賢者は、犀の角のようにただ独り歩め。」
欲望については、プラトンが著書『ゴルギアス』において、「穴の空いた甕」という喩えを用いて見事に戒めている。そこでは、カリクレスという大地こそすべてと言ったニーチェとよく似た人物が登場するのだが、彼は欲望や欲求というものは満たしたいだけ満たすのが正義だと主張する。そして禁欲主義をニーチェのいう奴隷道徳のように嘲笑する。そこでソクラテスは、それならある甕があったとして、それにもし穴が空いていたら水を入れてもどんどん流れ出してしまうから、そこに延々と水を注ぎ込まないとならない。快楽主義の精神とはそのようなものだと喩えて、そのような生は幸福ではないとしてカリクレスの主張を一蹴する。我々はこの甕の喩えのごとく、それぞれ心のどこかに穴が開き、肉体的・精神的に依存しているものがある。しかし、その対象に依存しすぎると逆に支配されているのと変わらない。だから、我々はその心の穴を塞がなければならない。そこで、わたしは信仰を勧めるのである。
わたしたちは、その年齢ごとに欲望や欲求を大きく傾けるものが変化すると考えられる。よく言われることだが、幼年期にはお菓子やゲーム、青年期には主として恋愛、壮年期には野心や財産、老年期にはおそらくは健康であろう。我々には求めるものに変遷がある。もちろん、どの年代においても、お金と愛情というものはある程度は必要である。欲望は苦しみのもとといえども、その年代において、あまりにも欲求が満たされない場合は不幸と言わざるを得ない。そのようなことを経験したならば、おそらくはどこか人格の欠けた人間になってしまうであろう。そのような人間が自分を含め、周りに少なからずいて、やはり人格が屈折しており、後遺症のようになってしまっている者もいる。それゆえ、欲望を全否定するのは間違っている。行き過ぎた禁欲や制限はかえって心歪ませる。何事もバランスが大事なのであって、我々が留意しなければならないのは、欲望が満たされることについての過剰と不足である。ソクラテスもそうは言っても、特に生育段階において、ある程度は欲望を満たしていたに違いないと考えられる。
欲望の最たるものである性欲について、兼好法師の『徒然草』から引用する。
「まことに愛執の道というものは、その根が深く、源の遠いものだ。人間の欲望を刺激する対象は数多くあるけれども、それらはみな、しりぞけることができるものだ。その中で、ただ、あの情欲という迷い一つだけは、とてもおさえがたく、こればかりは、年老いた人も若い人も、また知恵ある人も愚かな人も、変わるところがないものと思われる。」
しかれども、エリアーデが述べるギリシア人の感性を伝えたい。
「~というのも、アプロディテ(愛の神)によってひき起こされるのだから、性欲の過剰も逸脱も神聖な起源を有すると認めなければならないのである。~彼女が鼓舞し、称讃し、護るのは身体的な愛、肉体の結合なのである。この意味において、ギリシア人はアプロディテのおかげで、性的衝動が本来もつ神聖な性格を再発見したといえるだろう。」
しかし、葉室の考えの方が清らかである。彼も哲学者も、昨今の恋愛や男女関係については苦言を呈している。
「お互いが愛し合って結婚するのではないのです。もともと一つなんだから、神さまがまた元の一つに戻そうとするために、お互いが愛するように導かれたのです。~神のお導きに沿っていれば、一つだった本当の相手が見えてくるわけです。」
「恋愛というのは自分たちで愛しあっているのではないと、いつも言っています。神さまが愛しあうようにさせられた。」
「それもお互いが純潔で結婚してはじめて立派な子供が産まれ、いのちが伝わっていくというのが本来の姿ではないか。」
「我欲をなくして、すべて神さまのお導きで生かされているという感謝の生活をすれば、当然そこに本当の伴侶が現れて結ばれる。」
もっとも、自由恋愛というものも昔の見合い結婚でも、結局は優生思想で成り立っているに過ぎないのであるから、全くのめでたいものでも聖なるものでもないのではないか。雅で上品な源氏物語でさえおどろおどろしい話が多いのであるから、ましてやミゼラブルには清らかで純粋な恋愛はできない。
セネカの言葉から、多くの過ちの原因である怒りを鎮めよう。極めて重要な名文なので長く引用する。
「私は言うが、自分を無罪放免できる者など、一人もいない。~まず最初にわれわれは、こう確信しようではないか。われわれのうち、罪のない者は一人としていない、と。実のところ、最も多くの憤りが生じるのはここからだ。「私は何も間違ったことはしていない」「私は何もしていない」。いや、君は告白していないだけだ。~誰かがあなたのことで悪口を言ったと耳にするだろう。以前、あなたも同じことをしなかったか、考えてみたまえ。~われわれは他人の悪徳に目をとめるが、己の悪徳を背に負っている。~今、怒っている相手が、かつてどんなことでわれわれのためになったかを思ってみることが、われわれを温和にしてくれるだろう。貢献が加害を埋め合わせるだろう。~怒りの原因となった出来事よりも怒りそのもののほうが、どれほど多くを彼に失わせたことだろう。~あなたが怒りに勝つことを欲するなら、怒りがあなたに勝つことはできない。~きわめて思慮深い者すら誤ることがある以上、過ちに対するそれなりの言い訳がないことなど、誰にありえようか。私を害する可能性があるのは、不正よりもむしろ怒りだ。~われわれは皆、悪人なのだ。だから、何であれ他人において咎められるものを、誰もが己が胸中に見出すだろう。われわれは悪人のあいだで暮らす悪人なのだ。「彼は私に危害を加えた。私は彼にやっていない」。けれども、たぶんこれまで他の誰かに害を加えた。あるいは、やがて傷つけるだろう。あなたが怒りを負かすほうが、怒りが自分自身を負かすより、どれほどよいだろう。何にもまして有益なのは、死の定めを思うことである。~気高い喜びに費やすことが許されている日を、他人の苦痛と呵責へ移して何が楽しいのか。君の財産には損失の余地はなく、むだにできる時間はない。」
彼の慧眼にはいつも驚かされる。けだし、ギリシア人らしく「神にも見紛う」人物であった。我々には罪咎のない者などいないのである。
そもそも、いつも我々が怒りや失望を引き起こす根本原因は、他者や物事に対する期待である。考えてみてほしい。わたしたちは動物や植物には怒らない。たとえ生き物に害されても駆除する程度であって過度に怒ることはないし、岩や大木の下敷きになってもそれらに怒りを覚えることはない。無機物に怒りを覚える者はまずいない。さらにいうならば、津波に呑み込まれても波や海に対して怒る者はいないであろう。かえって政府や企業に対して人災であると怒りの矛先を向ける有様である。人は人に対してのみ怒るのである。それは、人が自分と同程度に理性や知性、常識や道徳を持っていると思っているからである。けれども、我々には完璧な人間などおらず、みなそれぞれ足りぬところを持っている凡夫に過ぎない。セネカが言うように、賢者として生まれてくる者はごくわずかである。賢者といえども過ちを犯すこともあるし、ましてや凡夫であるわたしたちが罪咎がないということはない。聖人君子でもない自分が人の過ちや失敗を非難する資格はないのである。それゆえ、他者に対する過度な期待は捨て去らねばならない。多くのことは大目に見るべきなのである。
仏教聖典から、いわゆる三毒について引く。
「貪りは満足を得たい気持ちから、瞋りは満足を得られない気持ちから、愚かさは不浄な考えから生まれる。貪りは罪の汚れは少ないけれども、これを離れることは容易ではなく、瞋りは罪の汚れが大きいけれども、これを離れることは早いものである。愚かさは罪の汚れも大きく、またこれを離れることも容易ではない。この三つは、この世の悲しみと苦しみのもとである。この悲しみと苦しみのもとを絶つものは、戒めと心の統一と智慧である。戒めは貪りの汚れを取り去り、正しい心の統一は瞋りの汚れを取り去り、智慧は愚かさの汚れを取り去る。」
父殺しの阿闍世王にブッダがいう。
「なぜあなたは自分の罪を見ず、他人の罪ばかり見ているのか。」
我々は人の欠点よりも、自分自身のいたらなさ、愚かさに目を向けなければならない。
また仏教聖典から引く。
「他人の過ちは見やすく、己の過ちは見がたい。他人の罪は風のように四方に吹き散らすが、己の罪はサイコロを隠すように隠したがる。」
また空海もいう。
「自分が教えに背いていることを一度も反省したことがなく、かえって他人が聖典に説かれた理法に反していることをあげつらって、これをそしります。いってみれば、自分の足のはれものをかくして他人の足のはれものをあばき出すようなものです。」
ルカによる福音書からも引く。
「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気付かないのか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。」
東西の聖者たちの言わんとすることは見事に呼応している。我々は人の罪をあげつらうよりも、まず自らの罪を反省しなければならない。
さて、ここで善と悪についての自分なりの思索を示してみる。
善とは(自>他・他>自)
①ある者が何かを欲せず、その欲せざるものが、その者を利さない場合では与えないこと(知恵・正義)
②ある者が何かを欲し、その欲する者を入手し使用する過程において、すべての者を害さない場合には与えること(正義・寛厚)
③ある者が何かを欲せず、その欲せざるものが、その者を利する場合には与えること(勇気・匡正)
④ある者が何かを欲し、その欲するものを入手し使用する過程において、その者や他の者を害する場合には与えないこと(節制・忠告)
悪とは(自>他・他>自)
①あるものが何かを欲せず、その欲せざるものが、その者を利する場合でも与えないこと(怠惰・放任)
②ある者が何かを欲し、その欲するものを入手し使用する過程において、その者や他の者を害する場合でも与えること(不正・不正)
③ある者が何かを欲せず、その欲せざるものが、その者を利さない場合でも与えること(怯懦・悪意)
④ある者が何かを欲し、その欲するものを入手し使用する過程において、すべての者を害さない場合でも与えないこと(無知・けち)
要するに、人口に膾炙している言葉であるが、「自分がされて嫌なことは、人にもしてはならない」ということである。それは論語の、「己の欲せざるところを人に施すことなかれ」という金言から由来しているものである。わたしはこれを、すべての生きとし生けるものに適用する。なぜなら、小烏の神が御誓願で「人間はもちろん畜類に至るまで」と、すべての生類を憐れむ御心を示されているからである。五烏教においては、命に差別はない。生きとし生けるものはみな平等である。しかし単にわたしが、幼い頃より生き物を大事にしていて、大人になってからも生き物にまるで恩返しをされるように癒されているからでもある。そしてこれは、五烏教が動物たちを大事にした古代エジプトの宗教と親和性が高いことを意味する。彼らエジプト人たちは動物を守り神聖視した。動物を虐待した者は死刑にされたほどである。このような慈悲深い宗教形態を、一神教の輩は偶像崇拝と蔑み、傲慢な神を掲げついには滅ぼした。それは東方において仏教とジャイナ教が不殺生を説いたが、イスラームに駆逐されたことと軌を一にしている。彼らの原典が物語るごとく、彼らにとっては生き物は、人間が支配し利用するだけのものに過ぎない。こうした人間中心主義の思想は危険であり、いくらメジャーな神とはいえ美点はあれども、悪しき点は改めていかねばならない。エジプトの神々はラーやホルスなど偶然にも鳥の神が多い。およそ生き物を大事にしない者は人間をも大事にしない。エジプトやネイティブアメリカン(カラスの神話が多くある)、古代日本の霊性の復興が待たれる。
ちなみに、わたしの父方の祖先は美作で猟師をしていたそうだが、その子孫が生き物を愛して鳥の神を信じることになろうとは宿命的である。おそらく、祖先の狩人の悲しみと贖罪の気持ちが現れているのであろう。いつか狩人にとって格好の獲物であるイノシシを間近で見たことがあるが、何かメッセージを伝えにきたようであったことを覚えている。目の前にいるのに、わたしに危害を加えることはなかった。
また福沢諭吉はいう。
「自由とわがままの境目というのは、他人の害となることをするかしないかにある。」
『論語』より。
「子貢が尋ねた。簡単に一言で一生涯それを行う価値のあるものがありましょうか。子曰く、それは恕(思いやり)、人の身になることだ。人の身になってみたなら、自分の欲しないことを、人に加えることなどできるものではない。」
ギリシアの「ギュゲスの指輪」という寓話にあるように、天罰を全く信じない者が透明人間になれば、悪行しかなさなくなるであろう。天罰を100%信じる者は、透明人間になっても善行しかなさないであろう。(信仰の必要性)
あらゆる悪しきことを行いながら、それを巧妙に隠し、最も善き人とされ、王座についている者>極悪人(こっそりと行う悪は最悪である)
あらゆる善きことを陰で行い続け、最も悪しき人とされ、乞食に落ちても善きことを行い続ける人>聖人(こっそりと行う善は最善である)
人間が死を免れないわけは、完全な善人になる可能性と、完全な悪人になる不可能性を与えるためである。死後の世界を予感することで、また神がいつも見ているという感覚によって、お天道様が見ているということで、我々は聖人となりえ、極悪人とはなりえない。すなわち、死は最高の法律である。
わたしが自殺を考えたとき、パスカルの賭けの自殺版ともいうべき思考をした。
信仰:生きる>生き地獄だが永遠の天国に入れる 死ぬ>苦しむ時間を少なくできるが、永遠の地獄に堕ちる
不信仰:生きる>生き地獄な上に死んだら無 死ぬ>苦しむ時間を少なくできるが無 どちらも不信仰ゆえに地獄に堕ちる可能性あり。
したがって、我々は信じて生きねばならないことが帰結する。
自殺は問題の解決にはならない。なぜなら、我々の生は一回ぽっきりではないからである。死んだら無になるといった世間の軽薄な言葉を信じてはいけない。もし無になるとしたら、たしかに苦痛は止むであろうが決してその保証はない。一方で死んでも霊魂が残るとしたら、この苦しみもがいている魂が永久に残るのだろうか? それならば、それこそ地獄に堕ちたということに変わりはない。だから、もし読者に自殺を考えている人がいたら、どうか思いとどまってほしい。それは、他ならぬわたし自身がそうであったからである。そもそも、自殺する者は自分で自分を殺したのではなく、そのような追い詰められた人を助けなかった周囲の人間や社会の者どもが殺したのである。すでに他界した膨大な数の自殺者は必ず生きたかったはずである。本当は生きたかったのに死なざるを得ないほど追い詰められたから自らの息の根を止めたのである。人間は社会的動物であるから、そういった人たちの無念の思いが現世に全く影響していないわけがない。そこまで追い詰めた薄情な連中に必ず報いとして現れるであろう。西洋の神学者たちは、首を吊って死んだ者や崖から飛び降りて死んだ者は、地獄で何度もその行為を繰り返すと極めて非情なことを述べているが、わたしからしたらそのような冷酷な言葉を吐く当の本人が地獄で今頃そのような憂き目に遭っていると考えられる。所詮、殿上人には悲運のミゼラブルたちの気持ちは、神の御前に立たされるときまでわからない。
神道の徳として、「正直」「慈悲」「智慧」の三つがある。神道は精神的な「内清浄」を重視する。わたしはそれらに、「感謝」と「懺悔」の徳を加えて、合わせて五色としたい。わたしは母からよく、「バカでも「ありがとう」と「ごめんなさい」が言えれば十分よ」と言われていた。いかに世の中にはプライドばかり高くて口ばかり達者で、その二つが言えない者が多いことであろうか。正直は努力と解して「がんばろう」としたい。五烏教の戒律としては、仏教の五戒(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒)のうち、不飲酒の代わりに「不救済」というものを配置したい。それは、苦しんでいる命を決して見捨てないという積極的な戒律である。人間にしても生き物にしても、苦しみのうちにある者を見捨ててはならない。それは先に述べたように神の御誓願の通りのことである。新約聖書に「善きサマリア人」という譬えがあるが、これに違反してはならない。
ゾロアスター教では、善思・善語・善行という徳目がある。仏教の身口意の業の三密、キリスト教の「私たちは、思いと言葉と行いとによって多くの罪を犯しました」と信仰告白するのと共通する。カントは我々の善行は、自らの幸福が過度に傷つけられない範囲においてのみに限られるとして、いわば哲学的原罪を明らかにした。しかし、善行をことさら偽善的であるとうがった見方で見るのは誤りである。そこには善をなす者、徳のある者に対する潜在的な嫉妬が含まれている。さながら不完全な善を悪に引き入れることによって、善をなさない悪である自分と同じ目線に立たせることで安心しようとしている。それゆえ、我々はそのような陰湿な哲学は振り払って善に邁進しなければならない。
ヤスパースは限界状況(死や罪、壮絶な悲運)についていう。
「限界状況のうちには無が現れるか、あらゆる消滅する世界存在を超越して、本来的に存在するものが感得されるかのいずれか。」
『過去と和解するための哲学』の山内志朗はいう。
「過去と和解するということは、未来の自分に約束をして、未来の自分が現在の自分を通して過去の自分に何かを送り届けることだ。」
過去のわたしを救うのはわたし自身であるように、過去のあなたを救うのもあなた自身である。
孔子は次のようにいう。
「生まれつき道を知る者があれば、それは最上だ。勉強した上でそれを知る者が次に位する。行き当たってから必要を感じて勉強しだすのが、またその次だ。行き当たっても平気で、勉強しようともせぬのは最低だ。」
また、ヘシオドスも同様にいう。
「最上なのは、自らすべてを悟る人、またよき言葉に従う人も立派なもの。だが、自らも悟らず、他に聞くも心にとどめないのは詮なき輩。」
我々はみな凡夫であって、生まれながらに悟っている者などいはしない。ただ、向上心を持って努力することができるか否かである。そこに人間の人格の差別が生ずるのである。
ミリエル司教はバルジャンにいう。
「百人の正しい人々の白衣に対してよりも、悔い改めた一人の罪人の涙にぬれた顔に対して、天にはより多くの喜びがあるでしょう。」
さらに続ける。
「忘れてはいけません。決して忘れてはいけませんぞ。この銀の器は正直な人間になるために使うのだとあなたが私に約束したことは。」
更生したマドレーヌ市長として、バルジャンは工場で働く者たちにただひとつ要求する。
「まともな男であれ! まともな娘であれ!」
あなたが倫理的に迷ったとき、バルジャンの自責を思い出してほしい。
「卑怯だぞ! 情けのないやつ(ミゼラブル)だ!」
キルケゴール「~自分の十字架を負うことである。~これを引いていくことが、たとえどんなに投げ出したくなるような辛い労苦にみちたものであるにしても。」
倫理観や正義感が高すぎたり、理想が高いと自分にも他人にも厳しくなる。人に道徳や正しさを期待するようになり、ひとたび自分が罪を犯すと罪悪感という形となって激しく苦しむ。わたしはバルジャンに救われ、バルジャンに責め立てられていたといえよう。けだし、魂の塞翁が馬というべきである。つまり、わたしは本章を、いわゆる「しくじり先生」として述べている。
旧約聖書・コヘレトの言葉から引く。コヘレトはこの言葉で締めくくっているのである。
「神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべて。」
また、空海もいう。
「五戒は悪を断ち切り善をおさめる根本、苦悩をのがれ安楽をえるはじめである。」
我々はうかつに戒めを破らないよう、常に警戒しなければならない。
またヤハウェの言葉である。
「わたしは必ず時を選び、公平な裁きを行なう。」
神や仏が定めた戒律を守ること、持戒こそ救いの第一条件である。逆にいえば破戒こそすべてが滅びるもとである。
かの法然上人が土佐に流罪になったとき、小舟に乗っている上人に遊女たちが舟を寄せて救いを乞うてきた。法然は彼女たちに、できることなら身を売ることは今すぐやめなさいと戒めるが、どうしてもできないのならただ念仏を唱えなさいと勧めた。そうすれば阿弥陀様は必ずあなたがたを救ってくださると。彼女たちは嬉し涙ですすり泣いた。彼が一般民衆を救いたいという聖僧であったからでもあるが、そのように、神仏の御心は慈しみに満ちているのである。
その法然は、主著『選択本願念仏集』の中でこう述べている。
「最低の階位で往生する者は、「五逆」を犯した重罪のものである。その重罪を消滅させることができるのは諸行では不可能であり、ただ念仏だけがそれを可能とする。」
また、その弟子の親鸞は『歎異抄』でこう述べる。
「これは、十悪や五逆の罪がどれほど重いものであるかを知らせるために、一回の念仏や十回の念仏といっていると思われますが、要するに念仏することによって罪を消し去る利益が得られるというのです。」
従来の浄土経典には、五逆(父と母を殺すことと仏を傷つけること)を犯した者は救いから漏れると書かれていたが、彼らはそれを乗り越え、すべての人に救いを渡したのである。究極的には小烏の神の御心もそのようなものである。
法然は従来の厳しい修行を課す「聖道門」を「難行道」とし、自らが提唱した念仏のみで救われるという「浄土門」を「易行道」とした。当五烏教は、それの中間に当たるものである。自律するということと神の恩寵という、自力と他力の双方を必要とする。困ったときの神頼みではいけない。
我々は祖先と前世の双方向から、徳と罪とを受け継いで生まれてきている。我々の過去生が全くの善人であることも全くの悪人であったこともない。善きものも悪しきものも、そのどちらでもないものも、まとめて受け継いでいるのである。言うなれば魂の借金と遺産とを同時に相続しているのである。それが現世に反映されているのであり、それを親鸞は宿業と言ったまでのことである。まさに神のみぞ知る世界でわたしたちは生を受け、また死んでゆくのである。わたしは残りの余生を来るべき来世に向けて、ただ慎ましく己の罪を懺悔して、少しでも徳を積んでいけたらと思う次第である。
ここで再び、わが神の御誓願を拝し、その真意を説こう。
「わたしの名は五烏といい、東城国において十二代の帝に仕え、数万年の齢を保っている。今際の時までも老病衰というものを知らなかったけれども、盛者必衰の始めあるものは必ず終わりあり、という世界の掟は逃れることができない。しかし、わたしの魂は中有に留まり、あなたがたの命根長養の守護神となろう。わたしの姿が青黄赤白黒と五つの色を現すことは、すなわち五智如来であり、五行であり、五臓を守るというわたしの神性の表れである。人間はもちろん、すべての生きとし生けるものまで、もろもろの病気わずらいを癒やして、あなたがたの五臓安寧の守護神となろう。」
小烏の神が死なれたのは、希望と共感のためだけではない。この神の死は、キリストの十字架による贖罪や地蔵菩薩の地獄における代受苦という観念と呼応するものである。すなわち、キリストが人類の罪を、地蔵菩薩が罪人の責苦を代わりに背負われたように、小烏の神も我々衆生の罪けがれや病苦を、五色の翼で包み込むことによって吸収され肩代わりされたのである。それゆえに死なれた。衆生の身代わりになるという究極的な自己犠牲の御心なのである。我々の苦悩を吸収し、罪業を浄化し、絶望を希望に変えられた。それゆえ、我々の罪も神の尊い犠牲によって赦されているのである。神の御誓願によって、この三本足の信仰のうち、思し召しは苦難から、神の頷きは孤独から、そしてこの畏れ慎む信仰では罪業からの救済が約束されているのである。小烏の神は、今現在も中有に留まり、我々衆生の苦悩や罪業を肩代わりしておられる。この神がいなければ、世界はもっとひどい阿鼻叫喚の地獄となっていることであろう。神の死によって、罪の赦しがもたらされた。キルケゴールが言うように、罪とは「死に至る病」である。神は罪という魂の病さえも除くと誓われたのである。小烏の神は、罪悪感という人間にとって最も重い病をも癒やされるお方なのである。すなわち、三つの大病からの解放が、小烏の神の御誓願のありがたい恩恵にほかならない。それはいずれ必ず訪れる、最も重き宿命である死すらも乗り越える力となるであろう。神ご自身が身をもって死を超越されたのであるから。「神の死」とは、中有という我々のすぐそばで共苦するという自己犠牲の思し召しなのである。繰り返すが、神の尊い御誓願を固く信じてよりどころとすること、これこそが五烏教の真髄である。小烏の五色の光によって、我々のもろもろの罪は赦され、魂は輝きを取り戻すのである。不死鳥である神のように。
ルカによる福音書より、ゆるしの御言葉を聞こう。先のミリエル司教の言葉はここからきている。
「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
映画『赤と黒』で、処刑前のジュリアンに師のシェラン神父が諭す。
「わが子よ、神はお前を見捨てはしない。」
わたしには父がいないも同然だが、預言者が自分の父であるとして、この言葉を父の言葉だと思っている。
我に咎あり、されど神は愛なり、この苦しみは必ず我を益す。
あなたが小烏の神のごとく、まさに不死鳥のように復活することを祈る。
