五烏神学
慈悲ふかく慈愛あまねき五烏大明神の御名において
遥かな御祖と交わした契約
我魂ハ中有ニ留リ、命根長養ノ守護神トナルベシ。我姿青黄赤白黒ト五ツノ色ヲ現ス事、五知ノ如来、五行、五臓ヲ守ル表相ナリ。人間ハ勿論、畜類ニ至ル迄デ、一切諸病ヲ除キ、五臓安寧ノ守護神トナルベシ。
祈りの挨拶
本書は、万人を救うために書かれたものです。なぜなら、それが神の思し召しだからです。万人とまではいかずとも、悩み苦しむ人たち、特に不幸のどん底にある人のために、著者であるわたしが救いの一助となればと考えて書くものです。すなわち、「悲惨な人々(ミゼラブル)」に向けて書く次第です。そういった方々は本を読む力さえないかもしれない。それでも本書を手に取ってくれたあなたは、どうか我慢してこのまま読み進めてみてほしいと思います。どん底の底の底まで味わい尽くした、地獄の煮湯を飲まされたわたしだからこそ書けるものがあると信じています。あなたが少しでも気が楽になったり苦しみが止めば幸いです。初めに言っておきます。あなたは決して独りではない。あなたが今どんな困難な状況に置かれていても、神は決してあなたを見捨てはしない。あなたが意識しなくても、神はあなたが生まれてから死ぬまで、この世から離れているときも常にそばで守っておられます。神を意識すること、それこそが信仰です。神があなたについておられるから、どうか安心してください。
本書は神の名を冠した宗教書ですが、広く一般にも通じることを意識し、またそれを願っています。神仏の救いは信仰の有無を問わず、あまねく届かねばなりません。それはあたかも、太陽の光、地を潤す慈雨が誰にでも分け隔てなく平等に降り注ぐことと同様です。そのように、神仏の御心は貴賤・善悪を問わず広く開かれています。それゆえ、神は「万民を守護」すると言われているのです。
わが小烏神社は一介の小さな村の鎮守様であって、極めてローカルな神に過ぎませんが、その御心は、それに反してあまねく広く、極めてグローバルなものです。なにしろ、「万物を造化」し「万民を守護」したもうのですから。わが祖神であることを誇りに思う次第です。ギリシア流に、その五烏大明神に誓って真理を書くことを約束します。
ヨハネによる福音書より。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」
以上を祈りの挨拶にかえて、世の人々に捧げる。どうか神の救いが、すべての生きとし生けるものに行き渡りますように。なむこがらす。
序論
先に挨拶で述べたように、本書は万人を救済することを目的としている。世に不幸や悪が止むことがないからである。わたしの使命は、神々の思し召しの通りに衆生済度を果たすことにある。なぜなら、わたしはたった一人、小烏の神から選ばれ、またわたしもかの神を選んだからである。わたしの乏しい人生経験や個人的体験などを根拠とすることもあるため、多分にわたしの主観と一般化できることとが混じると考えられる。わたしは自分が特殊な人間であると自覚している。そして、人間一個人が一生のうちに体験できる事柄は限られているため、すべての苦悩の解決策を網羅することは難しい。加えて、人の性格や感性はそれぞれ差異があるため、物事を一概には言えないことも多い。宗教でもさまざまな教えがあり、精神医学でもさまざまな治療法がある。ましてや、わたし一個人が万人を救えるなどとは思い上がりも甚だしい。そのため、もしあなたにとって本書が薬とならなければ申し訳ない。初めに断っておくが、わたしは元ひきこもりで(しかも十年)精神障害者である。統合失調症の単純型と「診断」されてはいるが、特に重篤な症状はなく、こうして著作を書くこともできる。どんな烙印(レッテル)が押されようが、わたしはわたしである。本書を出すことによって、さまざまな毀誉褒貶があるであろうが、わたしは本書を実名で出す。わたしはこれでも武士の末裔だからである。武士は戦いの前に自分の名を名乗る。ペンネームを使ったり顔を出さないのは卑怯者のすることである。わたしはヤスパースのいう「了解不能」なものを逆に書く自信がない。それでも抵抗がある人は本書を読むことをやめて別をあたってほしい。偏見なく読んでくれる人はどうか最後まで付き合ってほしい。なぜなら、心の病のある人、精神障害者こそ何にも増して救われなければならないからである。
身体障害者、知的障害者の方々にも相応の苦しみはある。わたしの母は重度の身体障害を負っている。その苦しみは心の病を併発するに充分である。しかし、心や精神、魂を病んでいる人こそ第一に救わねばならない対象である。なぜなら、肉体の病よりも、魂の病の方がより重篤で緊急性が高いからである。ここでいう魂とは、感情・知性・意志の総合体であり、死んでお化けのように出てくる曖昧模糊としたものではない。霊魂不滅はすでにソクラテス=プラトンが証明していることである。不滅であるが故に、いずれ霊界に行くときまでに魂を浄化させなければならない。もっとも、我々は輪廻転生するのであるから、いくらでもやり直しはきく。たった一度の人生、などという言葉は嘘である。人生は一度きりではない。もし読者に死に瀕している、もしくは取り返しがつかないと思っている人がいたら絶望しないでほしい。次の生で一生懸命頑張ればよいのであるから。
『レ・ミゼラブル』の著者、ヴィクトル・ユゴーはいう。
「パンがないために死にかけている肉体よりも、さらに痛ましいものがあるとすれば、それは、知識の光に飢えて死ぬ魂である。」
それゆえ、危急の状況にある人々には、早急に神仏の智慧の光と慈悲の雨を送り届けなければならない。
おそらく、わたし自身が救われていないではないかと批判があるかもしれないが、苦悩にある者が他者にとって全く役に立たないということもない。当事者だからこそ苦しんでいる者に共感でき、人の痛みがわかるようになるものである。持てる者には持たざる者の気持ちはわからない。あるいは自分がそうなるまでは。わたしは本書で、普通の人より苦しんできたが故に到達した思想や考えを提示する。けれども、決して上から目線でものを言うつもりはない。傲慢は神々の最も嫌われるところである。わたしも苦悩している最中であるし、共に苦しむ人々に寄り添えるようなものを書くつもりである。惨めな人間(ミゼラブル)だからこそ人の役に立てることはあるのである。だからその批判は当たらない。こうして後顧の憂いを断ち、わたしは理性と知性をもって本書を書く。ただ、わたしは本に著者の経歴が延々と述べられているところは面倒に感じるので、わたしの経歴や体験については極力省略するか差し控える。それでもどうしても述べなければならない重要な事柄については適切に書く。わたしの生い立ちや人生については、いずれ自叙伝のようなもので語るときもあるかもしれない。しかし、それよりもまず今苦しんでいる人々を救うことが先決である。現在順風にある人は、いつか苦難や逆境に見舞われたときの命綱になると思って読んでみてほしい。ただ、わたしの家には多くの蔵書があるが、すべてに目を通したわけではない。病や歳のせいもあるのか、すでに読む力を失いつつある。そのため、若干見切り発車の感はある。どうかお許しいただきたい。
孔子が『論語』でこう言っている。
「仁者というものは、自分が立ち上がろうするとき、その前に人を立ち上がらせ、自分が到達しようと思えば、その前に人を到達させる。」
これは仏教でいえば、自分よりも先に他がためにという「大乗利他」の精神である。それをわたしも踏襲し、どうかわたしを踏み台にして救われていってほしい。
ともかく、本書は万人を救うためのものである。そして特に魂の苦悩にある者に届けられなければならない。宗教の本質は救済である。物質的な救済は政治のすることである。宗教の責任は精神的な救済を目指すものであるから、とりわけ心の病に苦しむ人々を対象としなければならない。本書の目指すところは、苦悩からの解放である。なおかつ、時間・場所・状況(現代風にいうならばTPO)にかかわらず通用する普遍的理法を説かなければならない。真理とは有限なものではなく、あらゆるものを超えて通用する無限のものだからであり、だからこそ真理と呼ばれるのであるから。ここでいう真理とは、歴史的事実のことではなく、正しき理、普遍的理法のことである。論理学においては、正しい知識とは「現実の経験と矛盾しない」ものである。それゆえ、これから説くことが現実から乖離したものであってはならない。
救済の方法としては、神への信仰の一言に尽きる。こういうと一気に一般読者が離れてしまいそうだが、本書の内容は信仰心がなくとも通用するものとなるよう努めてある。現代は神なき時代と言われる。それこそ神も仏もないと思うようなことが非常に多い。ただそれはいつの時代も同じであって、現代はとかく宗教が悪いイメージを持たれて信仰を持つ者が少ないという意味である。宗教の本質は救済であるが、同時に道徳を教えるものでもあるから、それが廃れてしまうと世が乱れて当然である。道徳が廃れたが故に、現代人は人を信じなくなり、疑心暗鬼に満ちており、一億総人間不信になっているのがこの社会である。隣人愛や利他の精神は、一方がその心を欠いては成立しない。両者が清らかな心を持っていて初めて成立するのである。無償の愛といえば聞こえは良いが、現実はお人好しは舐められて都合よく利用されるだけである。かのアリストテレスは観照的生活こそ最も幸福であるとしたが、わたしは敬神的・崇仏的生活こそそれであると主張する。
神への信仰を救済の方法とするが、それはこれから述べる「思し召し信仰」「神の頷き信仰」「畏れ慎む信仰」の三本足で鼎立する。他に二章の神学や哲学を論じる。合わせて五色で彩られる。根幹はわたしの処女作『五烏経』であり、氏神様に蔵されていた大元の古文書である。古文書を書き残した「五烏社ノ地主」なる人物を、わたしは「預言者」と呼んでいる。これから単に預言者という場合、彼のことを指している。彼の後継として使命を果たす。古文書、先駆者を頼りに、わたしの思索を提示する。そして、わたしが単に「哲学者」というとき、仏教学者の中村元を指している。これは、トマス・アクィナスが哲学者というとき、アリストテレスを指しているのと似ている。誰しも自己を指導する精神的な師が必要である。彼は博覧強記でありながら慈悲深く、その思想もバランスがとれている。わたしの思想は彼によるところが非常に大きい。他に多くの聖賢たちの叡智を引用する。遠い昔の遥か遠くの地の人の教えが、現代の自分の心に届くことは感慨深いものがある。わたしは彼らによって蒙が啓けたといってよい。しかし、特に権威づけなくとも、普通の市井の人が言った言葉としてもよい。真理は誰が言ったとしても真理なのであるから。総合して、小烏の神の救いを明らかにする。
さっそく哲学者の言葉を引用する。
「天皇の書であっても、くだらぬものはくだらぬ。無名の廷臣の書いたものでも、すぐれたものはすぐれている。」
したがって、無名どころかややもすれば蔑視されているわたしの本書を、本物の人物はその真贋を見分けることができるであろう。そして時の経過が本書を正当に評価するであろう。
宗教学者ミルチア・エリアーデはいう。
「シャーマンと精神病者の違いは、シャーマンが自らを癒すのに成功し、共同体のほかの成員よりもより強く、より創造的な人格を獲得する点にある。」
はたしてわたしはどちらに属するであろうか。
エピクロスのプラグマティズム的な言葉を戒めとする。
「人間の悩みを何ひとつ癒してくれないような哲学者たちの言葉はむなしい。なぜなら、体からいろいろな病気を追い払わない医術が、何の役にも立たないように、哲学も、もしそれが魂の苦悩を追い払わないなら、何の役にも立たないからである。」
本書が、すなわち神の福音が、読者の魂を癒すものになることを祈る。わたしは全力を尽くして、たった一人ではあるが、五烏教徒としての本分を果たす。これがわたしの「ジハード」である。願わくは、本書が世の人々に資するものとならんことを。
本論
第一章 思し召し信仰
色は匂へど散りぬるを わが世誰ぞ常ならむ 有為の奥山今日越えて あさき夢見じ酔ひもせず
空海に帰せられたいろは歌である。諸行無常、万物流転、すべての物事は移ろいゆくという意味である。
われわれは生まれ生まれ生まれ生まれて生のはじめに暗く 死に死に死に死んで死の終りに冥い
同じく、『秘蔵宝鑰』の冒頭である。
エジプトのファラオ・アク=エン=アテンはいう。
「御身はわが心にあり、御身の計画と力を知る息子以外に、御身を知るものはだれもいない!」
思し召し信仰とは、どんな苦難もいずれ善きものに変化するという希望の信仰である。神の思し召し、計らい、御心、導き、ことわり、とさまざまな言葉で示される。この信仰は神や仏といった絶対者を特に必要としない。神や仏という言葉を、自然や宇宙などとしても読めるはずである。信仰ではなく、信念といってもよい。それゆえ、万人に広く伝えられるのである。この観念に至るには、まず試しにノートに過去不幸だったことと、それがあったから今は良いことにつながっていることを書き出してみてほしい。面倒に感じるかもしれないが、この作業をぜひやってみてほしい。一つの不幸から良いことが驚くほど出てくるであろう。かつての絶望が希望に変わっているのである。かつての苦しみや悲しみが喜びや安らぎに。それは極めて個人的な事柄が多くなるであろう。わたしもここでは書けないようなことも多い。書けることというとたとえば、
ひきこもりになって>>小烏の信仰に目覚めた、古文書を託された
家庭崩壊して>>母と苦しいながらも楽しく過ごせた、小烏や祖先の研究をした
父親の過ち>>持たざる者の気持ちがわかるようになった、ご先祖様を大事にするようになった
叔母の錯乱>>母が守ってくれた、精神病に対する理解
信仰を失って>>救いを求めてあらゆる本を読み漁った、教養が備わった
母が倒れて一命を取り留めた>>御仏のお力の証明、ひきこもりから出た
母親を十年以上介護した>>母親への恩返し、介護者、ヤングケアラーの辛さがわかるようになった
自分や家族の病>>小烏の御誓願のありがたさがわかる
自分の罪>>罪のゆるしの信仰のありがたさがわかる
小烏独信>>神様を独り占め、白羽の矢が当たった
小烏の神の死>>わたしというたった一人を救うためのもの
お家断絶>>自分が有終の美を飾れるかどうかがかかっている
愛鳥のインコの死>>こんな自分でも慕われたということ、小烏伝説の追体験
貧乏>>足るを知れる 病気>>小烏の御誓願 孤独>>悪い人間から離れられる
すべての不幸、貧病争の阿鼻地獄>>この思し召し信仰にたどり着いた
苦難>>浄福
わたしは父にはただならぬ思いがあるが、孔子のこの言葉を覚えておきたい。
「子に悪い点があれば父が隠してやり、父に悪い点があれば子が隠してやる。それが自然の性質に正直に従った行為と言うべきではないか。」
わたしの一番の思し召しは、まさしく小烏との邂逅にほかならない。魂の救済を渇望していたわたしにとって、小烏の神の御誓願は、まさしく神からの賜物でありプレゼントである。まことに、小烏の神はわたしにとってサンタクロースのようなものであり、この御誓願はサンタさんからのプレゼントのようなものである。そしてこれからも新たな思し召しが明らかになっていくであろう。けれども、ここに書けないことが何よりの思し召しであり、本当の救いであったりするのである。あなたにもきっと固有の思し召しがあるであろう。
これは時間の経過によってもたらされるものであるから、子供にはまだわからないかもしれない。それでも冷静に物事を見つめていけば、不幸な出来事の中にも気づきにくい幸せがあったりするものである。今苦しんでいる若い人たち、どうか踏みとどまってほしい。今は苦しみの意味がわからないかもしれないが、必ず良い方向性につながっている。時間がかかっても必ず状況は好転する。希望を持って耐え抜いてほしい。これは過去の自分自身にも言いたかったことである。どうか本書を読んでいる子を持つ方々、わたしの話を聞いて受け入れてくれるなら、悩み苦しむ子供たちにわかりやすく伝えて励ましてほしい。わたしは本書を書くことで、不登校だった過去の自分を救いたいとも思う。学校に行きたくても行けず、玄関で行こうか行くまいか迷ってうずくまっていたあの頃の少年をわたしは救いたい。時空を超えて今わたしが救いに来た。もう心配しなくていい。泣かなくていい。大丈夫だ。ただ言っておく、君にはガッツがなければならない。
大切なのは人にも物事にも、あまり完璧を期待しないことである。ストア派の哲学者にセネカという傑出した人がいるが、その人の言葉に「君たちの幸せは、幸せが要らないことだ」というものがあり、老子の「足るを知る」という言葉と共通して重要なものと考えられる。そして、多くの不安は杞憂であり、反対に期待は幻想に終わることが多い。なんとかなる、そういう楽観的な姿勢も大切である。太古の昔、アフリカのサバンナにいた人類は、常に猛獣や飢餓との隣り合わせにいた。それゆえに、いつでも危険を察知するため、世界や物事の悪い点ばかり見る癖がついているという。けれども、我々はすでにそうした自然界の脅威にはないし、飽食の時代と言われて久しい。むろん、悲惨なことはなくなったわけではないが、努めて意識して人や世界、物事や自らの人生の良い点に目を向けていくべきである。その上で、現在に起こるよからぬ事態には冷静に対処していくべきである。それもまた思し召しにつながっていると信じて。
『いま自殺を考えている人のための哲学』から引く。(以下『自殺の哲学』とする)
「逆に幸せになりたいと強く願望する人は、何としてでもその考え方を変えなくてはなりません。幸福を夢見ることこそ、幸福からもっともかけ離れた行為だからです。今ここで努力することが楽しいものに、自分の生活の基盤を置かねばなりません。」
すべては神の計らいであって、どんなことにも何か意味があるのである。何があってもどうなっても、それが神の思し召しと思えば強くあれる。人間から見て一見不幸なことでも、神様から見ると幸せにつながっているのである。何事にも光と影、陰と陽があり、一見悪いことでも違う角度から見れば良いこともあったりするものである。西洋哲学でよく言われることだが、神は悪をも善用される。悪いことがあっても、神は最善のことにつなげてくださっている。今うまくいかなくても、神は一番善いものを用意してくださっている。
だから、「天が我を見放した」と思うのは錯覚であり、天に見切りをつけるのは常に我々の方である。我々の弱さや早とちりが落胆や自暴自棄を起こさせるのであって、神は決してすべての衆生を見捨てはしない。
わたしたちは霊界に行くときまで、これからもさまざまな不幸なこと苦しいことがあるだろうが、神は最も善きものを備えてくださっている。これが善きことも悪しきこともすべて受け入れるメンタル最強の教えである。この考え方で、どんなことも忍耐できるようになるのである。そのとき受け入れられなくても、あとになってからあれでよかったと思えるときが来る。逆に幸せだと思っていたことが不幸につながっていることもある。それはたいてい人間の身勝手な欲望や邪な心から来るものである。このことを「逆思し召し」という。今不幸なことにも意味があり、巡り巡って最善につながっている。不幸だったことは幸福に変わり、苦しかったことは喜びに変わっている。わたしは元来ネガティブな人間であるが、ネガティブからのポジティブへの転換である。お豆腐メンタルから、鋼のメンタルへの転生であった。たとえば、面接で落とされても、恋愛で振られても、神様がそこじゃないぞ、そいつじゃないぞ、と言われているのである。苦難の中にも人智では計り知れない神意を見出していくこと、それこそが思し召し信仰である。わたしは長らく西洋の弁神論者、ライプニッツの「この世界は最善だ」という言葉が受け入れらなかった。それはお前が恵まれているからだろう?と反発心を持っていた。しかし、今では彼の言葉が理解できる。たとえ彼がわたしと同様の思考過程を経ていなくていたとしても。思し召し信仰、この思想を五烏教の中核に据える。苦しむ人々の万能薬になることを願うばかりである。苦難に遭っても、神の修復力、回復力を待つのである。このように、思し召し信仰とは希望の信仰である。思し召しという言葉は、小烏伝説で神々のお考えを「思し召し」と頻出するのでそう名付けた。わたしは「善は急げ」、「鉄は熱いうちに打て」というように本書を書くが、我々の目指すところは「急がば回れ」、あるいは「慌てる乞食は貰いが少ない」である。人は運命の容赦ない打撃に完膚なきまでに打ちのめされて、ようやくこのような泰然とした境地に至るのである。
エリアーデはギリシア的悲観主義についてこう述べる。
「結局、人間は人間の条件、わけてもモイラ(運命を司る女神)によって与えられる、固有の限界のなかで活動するほかないことになる。」
ギリシア人は「ゼウスが千の害悪を送らぬ者はひとりとてない」という、この悲惨な世界の中で生の喜びを見出し、極めて現世主義的な傾向がある。その点は日本人と似ている。
哲学者が極めて重要なことを書いているので引用したい。
「運命は各人に特有のものであり、他人と交換することができない。しかしそれは宿命ではない。万事がすべて決定されているのではない。各個人がそれぞれ現にあるがままのすがたで成立していることは、過去からの無数に多くの諸条件のからみ合いの結果であるが、それらの諸条件のうちのいくつかを、あるいはそれらのからみ合いの構造のありさまを、自分の意志によって変更することができる。ここに自由意志のはたらく余地がある。自由意志はすべてのことを改めることは不可能であるが、現在の事情に或る程度改変を加えることは可能である。」
「浄土教の信者のあいだでは、「わたくしが・・・する」とは言わないで、「わたくしは・・・させて頂く」という表現をよくする。さらにそれは日本人一般を通じてよく見られる表現である。ここには他力信仰がよく出ているのであるが、限られた存在としての自分のできることではないが、多くの人々の意向を受け、天地自然の恵みにあずかり、たまたま自分がこれこれのことをすることができるようになったと自覚しているのである。」
「ところでわれわれがこのような苦しみに悩むのは、なぜか? それは、すべてのものが無常であるのに、われわれは何らかの事物をわがものであると考えて固執しているからである。」
ここで哲学者は、我々が運命をも思い通りにすることができるという誤った意識を否定しているのである。我々は思い通りにならないことを思い通りにしようとする妄執を退けなければならない。ストア主義の哲学によるならば、自分の思い通りになる「権内」と、思い通りにならない「権外」とを正しく見極めて生きるべきである。世の中のほとんどのものは権外であり、権内にあるものは、ただ自分の心のみである。自由意志が働く余地は、各人の地位や能力によって大きく異なる。とりわけ、ミゼラブルの自由意志は極めて限定された範囲にしか及ばない。そこで我々は、ギリシアの黄金期が過ぎ去った厳しい時代を生き抜いたストアの哲人たちのように、外的なものには期待せず、ただ内的なものに意識を向けなければならない。
空海はこう述べている。
「そもそも冬枯れの樹木でも、いつまでも枯れているのではない。春になれば、芽生えて花が咲く。厚氷でも、いつまでも氷っていることはない。夏になれば解けて流れ出す。穀物の芽も湿気があれば発芽し、果実も時がくれば実を結ぶ。」
そもそも思し召しとは何か。それは神の深いお考えということである。我々凡夫には計り知れない神仏の五劫思惟のうちで出された透徹されたお考え、ご計画といったものである。わたしたち、特にミゼラブルにおいては、人生は大きな苦難に満ちている。お釈迦様が人生は苦に満ちている、すなわち「一切皆苦」と言っているのは正しい。苦難がまたさらなる苦難を呼び、泣きっ面に蜂のごとく、苦難の負のスパイラルになってしまっていることも多い。運命に恵まれなかったミゼラブルには、大きな苦難が間断なく襲いかかってくる。しかし、それはのちに述べるように、神に愛されている証拠なのである。なぜなら、わたしたちは自分が見込んだ人物に対して、期待を込めて厳しくするからである。たとえば、わたしは以前働いていた書店にて、店長や上司に非常に厳しく指導を受けた。店長などはさながら鬼軍曹のようであった。彼の言葉ではっきり覚えているのは、「諦めたらそこで終わり」という厳しいものであった。けれども、後になって知ったのだが、それは彼がわたしを採用するときからすでに評価してくれていて、自分がきちんと育てるという意志があったと先輩から聞いた。彼はこんなわたしでも高く買ってくれて、だからこそ厳しく接したのである。いわゆる愛の鞭であったことは言うまでもない。その証拠に、店長も交えた飲み会に参加した際、何度も激励してくれて、終電間際で別れるときに「がんばれよ」と肩を叩いてくれたことを覚えている。そのおかげで十年もひきこもりだったわたしが、激烈店と言われるほどの人気書店で使い物になるようになり、社会で通用する人間となったのである。精神科医の斎藤環が述べているように、普通はひきこもりが十年を超えたら社会復帰は不可能と言われている。その通念を打ち破ったのである。店長や先輩たちにはとても感謝している。店長が厳しかった一方で、わたしが配属された部署の先輩たちは優しく、楽しいユーモアに満ちていて、中間に位置する彼らの存在に救われていた。これこそ、神の深いお考えに基づいた思し召しにほかならないのである。このわたしの体験のように、神はわたしたちを鍛えるために、あえて厳しい苦難を与えるのである。それは、わたしたちに期待しておられるからであって、ミゼラブルは特別に愛されているのである。ミゼラブルは言うなれば、神という天界の大企業の社長に採用されたエリートである。だから、たとえ過酷な苦難に見舞われても、それを辛い苦しいと嘆くのではなく、自分が試されている、認められていると感謝の念で受け止めるべきなのである。人生というものは、神によってしつらえられた魂の訓練場、道場、戦場である。我々はさまざまな不幸や悪、苦難をどう受け止めていくかにかかっている。苦難を愛の鞭と受け取るか、単なる虐待と受け取るかでわたしたちはそれぞれ歩む道を違えていく。わたしたち凡夫には思いもよらない、神の深い思し召しに沿って生きるか、自身の愚かな妄念に沈んで生きるかは、とりもなおさず我々一人ひとりの心がけ如何にかかっているのである。とりわけミゼラブルは、その分岐点をどう進んでいくかでギャップが激しく、選択如何ではっきりと天国と地獄に振り分けられる。それゆえ、我々はできるだけ神意に則った人生を送らなければならない。苦難を耐え抜いた先に、必ず花開くものが示されるであろう。あなたの苦難のスパイラルを、この思し召し信仰によって杭止めることができたらと願う次第である。
このように、思し召し信仰とは、わたしの苦難の人生や個人的体験から導き出されたものであるが、過去の一部の賢者たちも同様の境地に至っている。また、中国の故事に「塞翁が馬」というものがあり、ある老人が次々に訪れる不幸に際しても、何か良いことに繋がっているだろうと達観していたということである。同様の思惟方法である。
キルケゴールがわたしとほぼ同様の信仰に至っている。
「重い苦難が役に立つものであるということ、このことは、信じられるより外ないことであって、見て確かめられることではない。あとから振り返ってみて、それが役に立つものであった事態を或いは見ることができるかもしれないが、苦難の最中にそれを見ることはできないし、またどれほど多くの人がどれほど心をこめて当人の耳にこれを繰り返し告げたところで、耳に入ることではない。それは信じる外ないことなのだ。」
「もし苦難のなかにいる者が、この苦難は自分にとって役に立つものである、とそう信じるとすれば、もちろん彼は山を移すのである。~苦難のもとにありながら信じて耐え抜くこと、これは自分にとって役立つものだと信ずる信仰、これが山を持ち上げ、山を移すのだ。」
「これを軽い荷として負う者、その者こそキリスト者なのだ!」
「忘れてはならないのは、きみの過去が赦されているということだ。赦しを心に刻んで忘れないこと。これはやはり軽い荷ということになるのではなかろうか。」
「苦難の思想、苦難の喜ばしい使信をしかと受け止め、苦難がわが身のためになることに気づいて、これに耐え抜き、これこそが幸いに到るほんとうの知恵であることを信じて、これを選び取ること、このために人間が必要とするのは神の導きである。」
「苦難の学舎は永遠にふさわしくある者へと人間を鍛え上げるものである。」
「神の前にそれこそ咎なくして苦しみを受けるのであれば、それは神から敵対的態度をとられているかに見える事態であり~神から見棄てられているのである。~だれであれ、その心のうちに神に責めを着せる、あの暗くて陰うつな思いをいだいている人間は、絶望しているのである。咎の意識の助けにより、神が愛であることを疑うことは不可能になり、神が愛であることが永遠に確かなこととなる。」
「悔い改めた強盗のほうは、心を砕かれながら、しかしどこかで救いらしいものに触れている思いで、この自分をお見捨てになったのは神のほうではなく、自分こそ神を見捨てたのだ、ということを会得する。」
「患難が道であるならば、その途上に患難があることは、道を間違えたことの証拠にならないどころか、彼が正しい道を歩いていることの何よりの証拠なのだ。~患難が道であるからには、患難だけが除去されて道が残るということはありえない。」
「殉教者は神と語らいながら、このような苦難を受けるに足る者と見なされたことを感謝しているのである。~十字架につけられる恵みを感謝するのだ。」
このように、キルケゴールは苦難を甘受するゆるしと悦びの観念である。
『スッタニパータ』でブッダは同様の逆説的な発言をしている。
「他の人々が「安楽」であると称するものを、もろもろの聖者は「苦しみ」であると言う。他の人々が「苦しみ」であると称するものを、もろもろの聖者は「安楽」であると知る。解しがたき真理を見よ。無智なる人々はここに迷っている。」
プロテスタントの創始者、マルティン・ルターはいう。
「キリストもまた同じ経験を、いやそれ以上に苦しい経験をなさったことを心にとめなさい。しかし、キリストを攻めたてていたように見えた神さまは決してキリストを見捨てられませんでした。反対に彼を引き上げ、栄誉を与えてくださったのです。同じように神さまは私たちをも引き上げてくださるでしょう。」
「あなた方は泣き、悲しんでいるが、あなた方の悲しみは喜びに変わる。その喜びをあなた方から奪い去る者はいない」と。これが神さまの約束であり、必ず守ってくださいます。~この世における不幸は私たちの魂を傷つけることはできないのです。」
ユゴーは苦境のマリユスについてこういう。
「この試練をくぐりぬけると、弱者は卑劣になり、強者は崇高になる。~高邁な人間には、不幸は上等の母乳となるのである。人類をじっと見つめるから魂が見え、森羅万象をじっと見つめるから神が見える。~彼は苦しむ人間の利己主義から、瞑想する人間の惻隠の情に移っていく。心中に感嘆すべき感情が花開く。すなわち自己忘却と万人への憐憫の情である。」
ローマの哲人セネカも同様のことを述べている。
「神は善き者を甘やかしはしない。試練にかけ、鞏固にする。自身のために彼を調えているのだ。「なぜ多くの逆境が善き人に生じるのですか」 ~善き者は、何であれ起きることの意義に思いを馳せ、それを善に変える。~君には不思議なのか。あの、善き者たちを深く愛する神が、彼らができるかぎり善くなり、いっそう卓越した者になることを望む神が、彼らに運命をあてがって、それによって鍛えさせるということが。~神は、できるかぎり高貴になることを神みずから欲する者たちに、何か大胆かつ勇敢に果たすための素材を与えるたびに、まさに彼ら自身のことを慮っているのだ。君たちにぜひお願いする。不滅の神々が、君たちの精神に対して、いわば鞭をふるうことを決して恐れないように。艱難こそ徳の機会である。神は、よしと認める者、愛する者を、頑丈にし、監督し、鍛える。~神が善き者たちに対してとっている方針は、教師が自分の生徒に対する場合と同じく、見込みが確かな者に多くの労苦を課すというものだ。~お前たちの幸せは、幸せが要らないことだ。~」
「打たれないものより打ち負かされないものこそ、より確かな力であることに、どんな疑いがありえよう。」
眩暈がするほどの名文である。このセネカという人の言葉には現実に人を変える力がある。
さらに、旧約聖書のソロモンの箴言である。
「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」
パウロはヘブライ人への手紙でこう書いている。
「霊の父はわたしたちの益となるように、ご自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。」
どうも西洋の賢者たちは同じような信念に至るようである。要は不幸でも納得できればよいのである。
わたしが思し召し信仰に到達したのは、幸福を願いながらも不本意に苦難に遭ってきて悟ったものであるから、ある意味、怪我の功名である。誰もむざむざ自分から進んで苦難に遭いにゆく者はいない。それゆえ、自惚れてなどいない。
イスラームにおいても、ムハンマドはこう神の御言葉を伝える。
「恐怖のさ中にあっても、決して我が計らいの希望を絶ってはならぬ。まことに我こそは汝らを、この恐怖から解き放ち救い出す力のある者であるぞ。」
そしてルーミーはコーランの言葉を続ける。
「まことに、信仰なき輩のみが神の御慈悲を諦める。」
多少意味合いは違うが、ニーチェの力強い言葉を引こう。彼くらいの超然とした気概がなければならない。
「過去に存在したものたちを救済し、いっさいの『そうであった』を『わたしはそう欲したのだ』に造り変えること-これこそはじめて救済の名にあたいしよう。いっさいの「かつてそうであった」は、一つの断片であり、謎であり、残酷な偶然であるにすぎない。-だが、創造する意志は、ついにそれにたいして、「しかしわたしはそれがそうであったことを欲したのだ」と言うのだ。-創造する意志は、ついにそれにたいして、「しかしわたくしはそれがそうであったことを、今も欲しており、これからも欲するだろう」と言うのだ。」
常に苦難や運命に対して、毅然と抗う気概を持っておきたいものである。
以上のように、受難の賢者たちは同様の信念に至っているのである。聖者たちの人生はゲームでいうならば、難易度はベリーハードかエクストリームにほかならない。
そもそも、生育環境というものは何にも増して重要である。天皇に生まれてもスラム街で育ったら天皇にはなれないし、宮廷で育っても障害児に生まれてきたら天皇にはなれない。そこには厳然たる宿命がある。アリストテレスはこう述べている。
「もろもろの状態(へクシス)は、それに類似的な活動(エネルゲイア)から生ずる。年少の時からある仕方に習慣づけられるか、他の仕方に習慣づけられるかということの差異は、僅少ではなく絶大であり、むしろそれがすべてである。」
しかし、それをしつらえるのは、神ないしは運命なのである。我々は自らに与えられた分だけのカードで戦わなければならないのである。けれども、わたしは遊戯王で言うならば、五烏大明神という「ブラックマジシャン」のごとき切り札を引いた。
よく「神様は乗り越えられない試練を与えはしない」などと言われるが、さすがに限度というものがあるものである。我々は時として自らの手に余る苦難に出くわすことがある。そのときの状況では、能力的、年齢的、環境的に乗り越えることが不可能な試練がやってくるときもある。たとえば、いまだ未熟な子供には到底耐えられない苦難が降りかかってくることもある。そういったときは、どうか周りの人々が支えてあげてほしい。またそうした思いやりのある社会になってほしい。あなたがもしこの教えで強くなれたなら、どうかそちらの側に回ってほしい。そうした助けが得られず、また助けを求められずに無念な思いで死んでいく人々もいるのだから。小烏の神は守護神であるが、そのように余裕のある者は、苦しみや絶望にある人を守るように心がけるべきである。それもまた神があなたを必要とされているという思し召しなのだから。
ヘラクレイトスは、「我々は二度と同じ川に入ることができない」と言った。これは、一見すると河川がある場所は変わらなくても、足元を流れる水は常に新しいものになっているからである。また「万物流転」と言ったことはよく知られているが、その万物が流転するという真理は流転せず永遠のものである。これから見えてくるものは、我々の運命という川が時に奔流や洪水になったとしても、神の御言葉という真理を筏にし、また中洲としてそこへ逃れていく、逃れると言ったら消極的かもしれないから言い換えるなら、活路を見出していくということである。五烏神話においては、それを「高洲」というべきであろう。「川の流れのように」や「時の流れに身を任せ」という有名な歌があるが、盲目的に人の意見や社会の流行、運命などに流されていけば、いつしか清浄な心を失ってしまい軽薄で愚かな人間となってしまうであろう。人に考えてもらって世間の常識で生きていくことは容易い。けれども、いったん自分の頭でものを考え出すと新しい道が開けてくる。ただ自分で考えるということは苦労の多いことではある。しかし、人に流されてオートマタのように生きていくことは幸福ではない。また、本能のままに生きていくことも然りである。そこには必ず悪魔が罠を仕掛けているであろう。それゆえ、濁流にも動じず、波に打ち付けられても微動だにしない巌のように自身を鍛え、また戒めていかねばならない。それこそが、神の思し召しに則って生きるということにほかならないのだから。
パウロ「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。」
後述することであるが、この思し召し信仰と後に述べる五烏神学は軌を一にするものである。少し触れておくならば、宇宙の一生とはそのまま神の一生であり、神の一生と我々衆生の一生ないしは人生の転変は同様のものであるということである。というのは、この世界は循環しかつ終焉が来るようになっているからである。そして、この思し召しの観念の通り、いずれすべての不幸や悪は一掃されるときが来る。それは上で哲学者が述べたように、わたしたち人間の自由意志にかかっているのであり、神はわたしたちがロボットやオートマタのように唯々諾々とご自身に従うのではなく、自由意志で善を選択することをことのほか喜ばれるのである。それによって、わたしたちの大小の苦しみもやがて幸せに変わるが、それはわたしたちの過去生が救われたと同義であり、同時に五色の烏である神も不死鳥のごとく荘厳によみがえる。それゆえ、この現世での人生についてもだが、死後の世界さえ、あるいは魂の行方や来世についても希望を持って生きていけるのである。神や世界の存在も、我々すべての衆生の存在も不死であり不滅である。のちに論ずるが、我々は本来すべからく「無敵の人」である。すなわち当五烏教は、過去・現在・未来を救う教えなのであり、祈りの挨拶で誓った真理にほかならない。我々はすでに至福のうちにあるのである。
五烏教の核心部分は、次の五烏大明神の臨終における御誓願である。
「わたしの名は五烏といい、東城国において十二代の帝に仕え、数万年の齢を保っている。今際の時までも老病衰というものを知らなかったけれども、盛者必衰の始めあるものは必ず終わりあり、という世界の掟は逃れることができない。しかし、わたしの魂は中有に留まり、あなたがたの命根長養の守護神となろう。わたしの姿が青黄赤白黒と五つの色を現すことは、すなわち五智如来であり、五行であり、五臓を守るというわたしの神性の表れである。人間はもちろん、すべての生きとし生けるものまで、もろもろの病気わずらいを癒やして、あなたがたの五臓安寧の守護神となろう。」
「神の死」、これこそが究極的な思し召しである。神の死という未曾有の悲劇があってこそ、我々すべての衆生の救済が約束されているのであるから。そのことは、神ご自身が病に倒れられ死なれることで、身をもって示しておられる。しかし、それは決して絶望ではない。ニヒリズムやペシミズムでもない。神は自らの臨終に、我々の守護神となるという御誓願を遺されたからである。この御誓願を固く信じること、つまり病苦の中にあっても希望を持つことこそが、すなわち病が治るということであり救われるということなのである。神はその臨終において、病苦やあらゆる苦難にある者に希望を遺されたのである。この尊い御誓願を固く信じてよりどころとすること、五色の光に満たされるということが、とりもなおさず小烏の救いにほかならない。
御誓願が果たされるということは、たとえ病苦にあっても死の淵にあっても、この神の尊きお誓い故に希望を持つことができるということにほかならない。絶望ではなく希望を。それが本当に魂の病が治るということである。苦痛を覚えても、その苦痛が取れるまで、希望を持って耐え忍ぶこと。たとえ心砕かれても、それこそ小烏の山に生い茂っている竹のように、風に倒されても小烏の御誓願ゆえに再び立ち上がっていく。それこそが神の思し召しに沿って生きるということである。病や死さえも無意味ではない。必ず何か肯定的な意味があるという思し召しを受け取ることである。すなわち、病が治るとは、闇の中で苦しむ心に希望の光が差し込むということにほかならない。神のお誓いゆえに。幾度も絶望の淵に身を投げてきたわたしが言うのだから信じてほしい。そして最終的には、現実としてフィジカルもメンタルも癒やされること、それが神の死という深い思し召しなのである。
つまり、病気が治る=御誓願を信じること、である。思し召し信仰とは、この神の御誓願を中核にしたものであり、それは五烏教の根幹である。神は臨終に、我々に希望という光を遺されたのである。
『ハイジ』で医者がハイジに尋ねる。
「だが、その悲しいことつらいことが、もともと神さまのおぼしめしなんだったら、いったいどうお話しすりゃいい?」
ハイジは答える。
「そんなら、待つのよ。こう思ってればいいの。-神さまはちゃんとご承知で、あとからいいことをしてくださるおつもりなんだって。ただしばらくじっとがまんして、逃げずにいなければね。そしたらきっと、何もかもいっぺんによくなって、やっぱり神さまがずっとあたしたちのためを思っていてくださったことがわかるようになってよ。~」
さらに、おばあさんに読み聞かせていた詩をハイジがいう。
「み心のままにゆだねよう すべてを知るそのかたに みわざははかりしられず おどろくこともあろう ときにはやむをえず 深いおぼしめしから きびしいこころみに あわせたもうこともある
しかもなぐさめとて しばしばさずけたまわず もはやうち捨てられ かえりみられぬものと 苦しみなやみに 胸はおののくばかり
されどつねにおそれず みもとにとどまれ 思いもよらぬときに すくいはおとずれ 心はつらい重荷から ときはなたれるだろう このうえない耐えがたい その重荷から」
苦難に遭ってもいずれ必ず幸いが訪れる。なぜなら、我々の過去の災いは福に変わっているからである。たとえば、厳しい冬を耐え抜いて春先に草花が芽を吹くように。啓蟄に虫たちが這い出てくるように。そのように、我々の苦しみはいずれ喜びに変わる。それゆえ、苦難に見舞われても忍耐して希望を持つことができる。
わたしが見た神の目は、厳しいものであると同時に、優しいまなざしをしていた。
「小烏の 神の試み おぼしめし 我ら従う 神のまにまに」
