第五章 烏我一如の道

第五章 烏我一如の道

「神はおのおのの国民に、その国語をもって語る預言者を賜いたり。」

 新渡戸稲造によると、コーランの言葉であるという。

 またコーラン二章牝牛から。

「東も西もアッラーのもの。それゆえに、汝らいずこに顔を向けようとも、必ずそこにアッラーの御顔がある。まことに、アッラーは広大無辺、一切を知り給う。」

 エジプトのファラオ・アク=エン=アテンは祈る。

「御身は遠くにありても、光は地に注ぐ。御身は人の顔に当たりても、その跡は見えず。~御身のみわざは、なんとさまざまであろう! それらは人の眼には隠されている。おお! 唯一の神よ。御身のほかに神はない。」

 そして、同郷の金子みすゞの有名な詩を引こう。

 私と小鳥と鈴と

 私が両手をひろげても、 お空はちっとも飛べないが、 飛べる小鳥は私のように、地面を速くは走れない。

 私がからだをゆすっても、 きれいな音は出ないけど、あの鳴る鈴は私のように、たくさんな唄は知らないよ。

 鈴と、小鳥と、それから私、 みんなちがってみんないい。

 彼女の想いと五烏教は一致する。

 五烏教は宗教多元論を採る。小烏神社は古くから両部神道・神仏習合の宥和の宗教だからである。まず、五烏大明神は五色の烏の姿をとって現世に顕現された肉体を持った神である。しかしその本体は、わが祖先の夢枕に現れて宣うたように、五智如来あるいは大日如来である。本地である五智如来が垂迹して五烏大明神として日ノ本に飛来したのである。この本地垂迹説は、キリスト教の父なる神が受肉してイエス・キリストとして降臨したことと軌を一にしている。仏教の三身説、すなわち、法身・報身・応身の説で、法身である大日如来が肉体を持ってゴータマ・ブッダとして降誕したことともである。それと同様に、五烏大明神も、本来の姿は叡智界の五智如来であって、五色の烏としての姿は、衆生済度の御心から現象界に降りてこられているものなのである。ここでわたしは、単に類似性・共通性において同一視していると思われるかもしれない。確かに、こうした帰納法でも真理は導き出されるものではある。しかれども、何より世界の神々諸仏が同一であるということの証明になるものは、プロティノスのいうごとく、すべては唯一のひとつの存在から流れ出たものであるということである。空海はそれを大日如来が化身した姿といい、汎神論の白眉たるスピノザは、神の存在の様態の変容といった。そして、そういった存在がおしなべて我々衆生を、生きとし生けるものを救わんとされているということである。現代はとかく多様性といったものが重んじられ、普遍性というものが疎かになりつつある。わたしは社会に受け入れられず苦しんでいる少数派の人たち、マイノリティの人たちを守りたいと思うが、それゆえに国家や共同体が一体性を失い、崩壊してしまうのではないかと危惧している。多様性を尊重するといえば聞こえはよいが、我々は自分とかけ離れた人々に共感することはできない。そこで孤独や孤立、ひいては争いが生じてしまうのである。もちろん相手を尊重することは大切である。ただ、相手を尊重することができない人を尊重する必要はない。特に政治や宗教においては、それが顕著である。だから昔から「政治と宗教と野球の話はするな」と言われているのである(野球はかわいいものであるが)。宗教においては自分たちの神仏や教えが正義であり、他宗教は邪教で嘘や間違いであるといって憚らない人たちもいる。嘆かわしいことに、人が大事にしているものを尊重できないどころか、違いを認め合うこともできない人であふれかえっている。我々は排他的な思想こそ排斥していかなければならない。すべての思想を通暁したわけでもないのに、一部だけを知ってそれを信条にして、他人にも押し付けるのは軽率で無責任である。なぜなら、それは不勉強ゆえに間違っているかもしれないから。小烏は折伏の教えではない。摂受の教えである。このコーヒーを飲めとは強要しない。よかったらコーヒーはいかがですか、と勧める。お前の飲んでいる水は毒だ。こっちの水を飲め、とは言わない。あなたの飲んでいる水もおいしいですね、わたしの飲んでいる水もおいしいです、というのが小烏である。この論争に終止符を打つのは、多様性を認めつつ普遍性のあるもの、たとえば戒律や道徳、また先の演繹的な観念の共有である。すべての存在は同一の神から流れ出たものであり、等しく聖なる存在であるから、必然的に尊ばれなければならない。一は多であり、多は一である。これは決して迎合ではない。詭弁を弄する輩の論は斬って捨てなければならない。認識論では、人それぞれ認知のずれがあるという。いうまでもなく、人と猫が見ている世界は違う。認知の歪みが大きい人は正さなければならない。プロティノスがいうように、すべては「一者」から流出したものであるから。実に「神は多くの顔を持つ」のである。

 なぜ世界が神であるなら、わざわざカラスの姿をとって現れているか。それは世界の聖性の象徴として、救済の約束をするために具体的な形をとって顕現されているということである。そうしないと人間は絶望してしまうからである。すなわち、五烏大明神がいないとわたしが絶望してしまうのである。小烏の神はわたしのために死なれて、わたしの守護神となられた。そしてただ一人わたしを選ばれた。法然の教えを親鸞がそうとらえたように、そのことを固く信じている。

 神がカラスという形態をとっておられることについては、さまざまな理由が考えられる。まず人間でないことに価値がある。人間が動物や自然を侮ることを免れるためであり、動物の中でも鳥であることで飛翔して、空から苦しんでいる者を見つけることができる。また黒い姿で忌み嫌われることによって、そのような社会的弱者と共にあることを示しておられる。そして極めて知能の高い動物であり、衆生済度を果たすにはそれが必要であったためと考えられる。大体、お医者さんは頭が良い。だから心のお医者さんである五烏大明神も知能の高いカラスなのである。しかしそれは、現実の医者のように地位や権威を持つものではなく、キリストのように侮辱され排除される者たちを救うためのものである。それから、世界を祓い清める存在でもある。なぜなら、戦いや悲劇の後の死体やゴミを食べることで疫病や腐敗を防いでいるからである。世界の掃除屋さんでもある。そして醜い声は媚びない態度、真理には飾り気はなく厳粛なものであるということを示している。わたしはカラスの鳴き声は、どこか人語を話しているようで親しみやすい。単にわたしが鳥が好きであり、その鳴き声は神の声だと認識しているからでもある。以上のように、カラスは一般的には不吉なイメージであるが、これについてもパラドクスであり、払拭しなければならない。そもそも、鳥類は恐竜の子孫ともされ、幼い頃に図鑑で始祖鳥のイラストを見たことを思い出す。それゆえ、逃げ隠れしていた哺乳類の子孫である人類は、本能的に太古の昔の畏れの感情を想起するのではないだろうか。さらに、五色の烏という鳳凰のような鮮やかな姿と、配偶神である市杵島姫命が奏でる音楽の組み合わせは、シャーマンをトランス状態に導くものであるようにも考えられる。わたしは自分で描いた五色の烏の絵を観ながら荘厳な音楽を聴いていると、何かそのような感覚に近いものを覚える。

 預言者は神道に仏教や陰陽道を習合した。わたしの役目はキリスト教その他を習合することである。それが思し召しである。

 エリアーデはいう。

「神はひとつであると同時に多数である。創造とは神の名と形態の増殖にほかならない。」

 葉室賴昭はいう。

「共生は、自分のことを押し付けることではなくて、共に生きていくのに、お互いのことを考えて、一つになるということなのです。」

「日本人のもとのせいしつは、かんしゃと共生なんだよ。かんしゃとは、人間は自分で生きているのではなくて、神さまや自然のおめぐみで生かされているから、そのことにかんしゃするということ。共生とは、相手と対立したりあらそったりしないで、相手の身になってそのしあわせを考える、ということなんだよ。」

「共生というのは人間同士も共生するし、人間と祖先、人間と神さまとも共生する。そして神さま同士もまた共生されるのです。」

 共生とはなかなか難しいものであるが、グローバル化が進み切ったこの世界で精神的な統合もますます必要となってくるであろう。

「捨てる神あれば拾う神あり」と言われるように、神や仏にも得手不得手があるものである。日本の八百万の神はそれぞれ個性があって神徳に違いがある。仏教の各宗派の仏様にも願い事を叶えてくださるものもあれば、罪業のゆるしを与えてくださるものもある。罪の赦しといえば、いうまでもなくキリスト教の本分である。イスラームではこの世の苦しみが終わり、楽園で安楽に過ごせる。要は自分に合った神仏を選べばいいのである。それはとりもなおさず、当の神仏に我々が選ばれているということでもある。このように言ってしまうと、本書の役割が微妙なものになってしまうかもしれないが。わが五烏神のお力は、根本は病気治しである。古文書にも「医療ノ神」であると明記されている。後代に至って保食神と習合され、五穀豊穣の神ともなっている。とはいえ、この宇宙の創造神であるから、もはや万能のオールマイティな神である。わたしは五烏神は少なくとも、病と死と喪失と苦難と孤独と罪から救うお方だと考えている。どれも人間にとって耐えがたい根本問題である。それゆえに尊い。

 哲学の立場に、唯物論・実在論・観念論・唯心論とあるが、五烏教は観念論に近い立場をとる。というのも、伝説の内容的にもそうであるし、わたしは実在論のアリストテレスよりも観念論のプラトン派だからである。唯心論はこの世は幻(マーヤー)であると説くが、五烏大明神は現世に肉体を持って現れているので、物質の存在は否定できない。また、世界は神の魂の展開なので、唯物論は当然退けられる。インド哲学で、ブラフマンのうちに生きることを「梵住(ブラフマヴィハーラ)」というが、五烏教ではカラスの神霊のため、神のうちにあることを「烏住」するという。

 また金子みすゞの詩を引こう。

 蜂と神さま

 蜂はお花のなかに、お花はお庭のなかに、お庭は土塀のなかに、土塀は町のなかに、町は日本のなかに、日本は世界のなかに、世界は神さまのなかに。そうして、そうして、神さまは、小ちゃな蜂のなかに。

 彼女は難解な哲学など知らなくても、直感的に普遍的真理を見出していた。

 五烏神は後代に保食神と習合されているが、この神は古事記においてはオオゲツヒメという女神である。彼女は荒ぶるスサノオによって打ち殺されたが、その亡骸から我々の命を支える五穀が生じた。この神話は各地に見られる巨人解体から世界が生じたという神話と類似するものであるが、いずれにしても小烏の神は世界の礎となっておられるのである。

 エリアーデはそのことについて、インドラ神のヴリトラ退治に言及している。

「世界と生命は無定形な原初存在を殺すことによって、はじめて誕生することができたのである。」

 アントニオ猪木の言葉を送ろう。

「川はいくつにも分かれるが、最後は同じ海に行きつく。」

 哲学者の言葉も引く。

「若干のインドの思想家は、もろもろの解脱した心は絶対者と一体となる。それはもろもろの河川が大海に合流すると名称と形態とを失うようなものである、と説いた。」

「真理を見る立場に立つと、既成の宗教のどれにもこだわらなくなる。どの宗教に属していてもよい。しょせんは真理を見ればよいのである。」

 さらにユゴーも同様の発言をしている。

「筆者は個別のいろいろな宗教には反対だが、宗教そのものには賛成する。」

 たとえ歩む道が違っても、いつかは山の頂上でまみえることができるであろう。神や仏を信ずることができるようになることは、「大海中の盲亀、浮木の穴に入るが如し」であることにほかならない。

 哲学者は普遍的理法についてこう述べる。

「仏教では人間がいかなるとき、いかなるところにおいても遵守すべき永遠の理法があると考えて、それを「法」と呼んだ。」

 これを西洋では「ロゴス」といい、中国では「道(タオ)」という。すなわち、ロゴス=ダルマ(法)=道である。ちなみに、ヤスパースは紀元前五世紀頃を、人類の精神的革命期と捉えて、その時代を「枢軸時代」と呼んだ。ギリシアではソフィストと呼ばれる弁論家たちが、インドではシラマナという思想家たちが、中国では諸子百家という学者たちが綺羅星のごとく現れた。

 

 小烏の神が「この朽木をもって、我が姿を刻み」と命じられていることについて。

 コーランでは偶像を「でく」といって蔑むが、時には偶像崇拝が必要な理由について述べる。パニック障害になってわかったが、追い詰められて今にも死にそうなときにはイメージが必要である。絵画でも聖像でも、とにかく思い浮かべられるものがいる。もしなければまるで雲をつかむような、実態のない祈りになる。無に祈っているようだ。苦しい時、人はただ神様助けて!としか祈れない。普段の小難しい祈りはできない。そんな時、特に顔がイメージできなければすがることができない。だから偶像は必要であるし、何よりも、小烏の神がわが祖先の夢に現れて「わが神像を刻め」と神勅を下されているのであるから、わたしはそれを信ずるところである。日本の八百万の神はもとより、世界の神々は実は五烏大明神が造られた天使であって、すべての天使たちは五烏大明神に収斂するひとつの存在である。神や天使たちは、あらゆる民族に向かって対機説法を行い、それぞれの気質や状況に応じて、ある民族には偶像を作れと、ある民族には偶像を作るなと命じていると考えられる。それはどちらが優れているとか劣っているということではない。しかし五烏大明神は、本来は不滅の存在でありがながら垂迹して五色の烏として顕現され、死なれた後も御神木に姿を変えて祖先たちを見守り、それが朽ちた後も神像として残り、あくまで衆生と共にあるという深い慈悲の御心を示されている。三段構えの慈悲であり、そこに神と人が断絶している一神教に対する優位性を認めるし、偶像崇拝と蔑視される所以もないことを確認するところである。そもそも、偶像という言葉自体がすでに蔑称であるからよくない。仏像や神像、聖像などと呼ぶべきであって、一神教や日蓮系の信者に顕著な、他者の気持ちを考えず、他宗教を尊重しない、言われていることに無批判に従う愚かな人々にかまけている余裕はない。それは宗教に限らず、自分の頭でものを考えない多くの人々から生じている。彼らは自分たちが正義だと信じ込んでいるので、平気で自分がされたら嫌なことでも人に対してする。宗教以前の問題であることも多いのである。けれども、どういうわけか、これは日本人の一神教の信者に顕著な現象であり、むしろ海外の人々の方が寛容である。宮島に参詣すれば、キリスト教徒であろう白人の方々や、ヒンドゥー教徒であろうインド人の方々が、日本の作法に倣って敬虔に祈りを捧げているのを見かける。わが小烏神社においても、あるとき、フードを被ったイスラム教徒らしき東南アジア系の女性が自転車を停めて、山の麓から小烏に向かって祈っているのを見かけたことがある。他にも、出稼ぎの労働者らしき男性三人組がよく登って参拝されていた。おそらくはインドネシアの方であったのだろうが、不寛容とされているイスラームの方でさえ他国の宗教には敬意を払うのである。我々日本人は元来寛容な民族と言われてきたが、もはや民族性が劣ってきているのではなかろうか。そもそも、神や仏がそのような心の狭い者であるわけがないのである。

 孔子はこの真理を言った。

「子曰く、学んで思わざれば暗し。思って学ばざれば危うし。」

「教わるばかりで自ら思索しなければ独創がない。自分で考案するだけで教えを仰ぐことをしなければ、大きな落とし穴にはまる。」

 既成の宗教を鵜呑みにしたり、社会の常識や価値観で生きていくだけでは精神的盲者であり、逆に過去の偉大な賢人たちの教えを顧みず、未熟で愚かな自分の考えだけで生きていくのも危険であり傲慢でもある。本物の人物は、まず充分に学んだ上で、さらに自分の頭でも考える作業をする。ここにもまた敬虔さと独創性という中道、あるいは中庸の道があるのである。

 

 わが預言者は五烏経の冒頭において、こう宣言する。

「そもそも神社というものは、天地そのものを模型として表したものである。神は天地の間にあまねく満ち満ちていて、万物を造られ、すべての民を守護される。そして、天地に満ちる元気も、すべての生きとし生けるものも生命を持たないものも、何ひとつとして神に造られていないものはない。」

 さらに、神は夢告する。

「わたしが五色を現しているのは、この世界の空劫が終わり、次の世界の成劫の初めの時、黄なる風を生じて、それが次第に五色の風となるからである。それは、すなわちわたしの魂魄である。それゆえ、天地の間、無量無辺、森羅万象のうち、何ひとつとしてわたしの神力によらないものはない。」

 この部分が、わが祖先の枕の夢に現れた神からの神勅である。五烏大明神は創造神であり、また宇宙そのものであることが了解される。神の「魂魄」が宇宙の始まりのエネルギーであり、また天地創造の展開であるということは、神の魂魄は宇宙の形相・イデアであるということである。魂魄は五智であり形相である。とりわけ、五智のうちの中心、「法界体性智」がすべての源である。そして、質料としては五行や五大、五元素がそれにあたるものである(中国において、五行説は仏教の五大と同一視された)。そのことは実際に五色の烏として顕現された五烏大明神が体現されていることである。ここでいう形相や質料という言葉は、アリストテレスの哲学において、それぞれ設計図と材料という程度の意味になる。たとえば、家を建てるときに、棟梁が考えた設計図がなければならないし、それを実現するためには木材や石材などあらゆる材料がいる。本書は万人を救うために書かれるものであるから、煩瑣な哲学を体系的に論ずるのは差し控えたいと思う。危急の状況にある人に、そのようなものは全く救いにはならないし、何の意味もないであろうから。そういった形而上学的なことは、過去の偉大な哲学者たちがすでに成し遂げていることである。我々は形而下に存するのであるから、あくまで現実的な事柄を論じなければならない。形而上のことは、それこそ形而上の存在となったときに神が明らかにされるであろう。少なくとも、一切衆生の命がことごとく世界に依存しているということは、その世界もまた命を持っていると言わざるを得ない。我々は仏教の「毒矢の喩え」として伝えられていることに思いを馳せなけばならない。曰く、ある人が弓矢で射られた。そこでその矢がどこから放たれて、誰が射ったのか、どんな弓であるのかを調べるのではなく、何よりもまず矢で射たれた人の治療に努めなければならない。その病とはいわゆる四苦八苦であり、また三毒である。だからブッダは形而上学的議論を戯論といって沈黙したという。そのことを「無記」という。

 といえども、これだけは述べておかねばならない。五烏教はいわゆる汎神論と呼びうるものである。とりわけヒンドゥー教のウパニシャッドの哲学、中でもシャンカラの哲学と極めて親和性が高い。曰く、宇宙の根本原理・ブラフマンがあり、それと我々の真の自己・アートマンは一体であるというものである。それを「梵我一如」という。平たくいえば、神と我々の霊魂は一緒だということである。ここで大事なのは、心や精神と、魂や真の自己とは区別されるものであるということである。ましてや情念とは区別されなければならない。仏教の六識における意(心)は物質的器官である。なにものにも汚されない真の自己があるのである。ウパニシャッドでは「汝はそれである」、「われはブラフマンである」という聖句が最重要視されている。それは我々の本来の自己が、そのまま絶対者にほかならないという驚異的な言葉である。『リグ・ヴェーダ』では「実にこの唯一なるものが宇宙全体となった」という。ギリシアのクセノファネスも「有は唯一にして、しかも万有である」と述べている。天上のものに憧れたプラトンも、イデアがそれを分有するもの、つまりこの世界に偏満していると考えた。バラモンの哲学者がブラフマンとの合一を目指し、道家が「道(タオ)」に還ることを目指していたように。五烏神も、預言者が述べているように、その魂は天地に満ち満ちているものであり、「一切の有情非情ひとつとして、神明の変作にあらずということなし」であるから、とりもなおさずブラフマンは五烏神にほかならない。その神のうちで我々は生かされているに過ぎない。いや、我々のうちに神が生きておられると言った方がいいかもしれない。ともかく、神と我々はつながっており、本来は一体であるものである。それが我々人間の愚かさ、神道でいえば罪けがれ、仏教でいえば煩悩によって本来清浄なる心が曇らされている。他者と対立しているという誤った見解、本来の自己を忘却して自我があるという幻想、そこからすべての不幸や悪が生じてくるのである。この思い違いから、あらゆる苦しみが出てくるのである。サタンや魔王波旬はそこをつけ狙っている。それゆえ、我々は努めて自分の心が清らかであるように心がけなければならない。アートマンというのは、ギリシアでいうならば「プシュケー(気息)」に等しい。仏教では我々には「仏性」、すなわち誰でも仏になりうる可能性があり、それはダイヤモンドよりも硬く、決して壊されないものであるという。神道においても「神性」という言葉があるが、とりあえずこの仏性を我々はアートマンと呼ぶことにしよう。なぜなら、我々は聖徳太子のいうように、ただの凡夫であって自分を神と称するなど甚だしくおこがましいことだからである。仏、ブッダには誰でも努力次第でなれるものであるから。

 仏教聖典から仏性について引く。

「すべての人々には清浄の本心がある。それが外の因縁によって起こる迷いの塵のために覆われている。しかし、あくまでも迷いの心は客であって主ではない。この縁の来ること去ることに関係なく、永久に動かず滅びない心、これが人の心の本体であって、また主でもある。縛られた見方を外の縁に返し、縛られることのない自己の本性に立ち帰ると、身も心も、何ものにも遮られることのない自由な境地が得られるであろう。」

 しかし、わたしは仏性とは反対に、人間には「魔性」ともいうべきものがあると考える。それは孟子が性善説を、荀子が性悪説を唱えたことと同義である。我々は良心と利己心のどちらも持っているから、両説は両立するものである。そしてそれについては、先の四章で論じられた。

 葉室はいう。

「神さまのおこころからすべてのものが生まれ、そして神さまと人間は全部つながっているということです。~すべてがつながっているのですから、あの世で祖先が幸せになってくれなければ、我々もまた幸せにならない。」

「この世界はすべて無から、神さまのお心とムスビの働きによって現れてくるのでありますから。宇宙には神さまの姿以外は存在しないということになります。けれども、多くの人はこの真実の仕組みを知らず、悪が実在すると考えておりますので、現在のような争いや我欲などに満ち溢れた世界が現れてくるのだと思います。」

 ユゴーはいう。

「わたしたちの外部に無限があると同時に、わたしたちの内部にも無限があるのではなかろうか? ~この下方の自我が魂であり、この上方の自我が神なのである。思いをこらすことによって、下方の無限を上方の無限と触れ合わせること、これが祈ると呼ばれることである。」

 さて、ここで五烏神と仏性を合一させていく道が明らかとなった。すなわち、本書のタイトル『烏我一如の道』である。神に自己を一如させていくのである。それはいかにして達成されうるか。ここでまず確認しておきたいのは、この世界は神そのものであって、我々個人個人もその中で生かされ、すべての生きとし生けるものもつながっているということである。仏教でいえば「縁起」という言葉で言い表される。すべてがつながっていて連続しており一体である。それが何を意味するか。それはすべての存在に対する愛情である。なぜなら、世界は自分自身であるのだから。スピノザのいう「神即自然」ということである。我々は神の体の一部分なのであり、それは他者も同様である。対立すると思われる他者も実は自分自身なのである。それゆえ、自己と他者の利害は常に一致するものとなる。他者を傷つけるということは、究極的には自分自身も傷つけるということになるのである。反対に他者がされて嬉しいことをすれば、自分にも陰徳として良き報いがある。人が泣けば自分も泣き、人が喜べば共に喜ぶ。他者を尊重し、共感していく。相手の立場に立って考えるということが大切である。そういう人間になっていく。抽象的な思弁も世界の理解に必要なことだが、こうした実践的な行為も大事なことである。

 それをキリストはこう実践している。

「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何の関わりもないことになる。師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」

 イスラエルのこの当時、人の足を洗うという行為は奴隷のする仕事であった。それを神がなされているのである。

 ユゴーはいう。

「人生最上の幸福は、愛せられているという確信にある。直接自分自身が愛せられる、いや、むしろ自分自身の如何にかかわらず愛せられるという確信にある。」

 そして孔子の言葉で戒める。

「諸君は、言葉が実行よりも立派なことは恥辱である、と銘記してほしい。」

「仁の道は遠くにある理想ではない。いま自分が仁を行おうと思えば、仁はすぐそこにあるのだ。」

 また空海も次のようにいう。

「そもそも仏の教えは、はるか遠くにあるものではない。それは、われわれの心の中にあって、まことに近いものである。さとりの当体である真理は、われわれの外部にあるのではないから、この身体を捨てて、いったいどこにそれを求め得ることができよう。」

 神と世界、他者と自己、全ての存在と合一すること、これが五烏教の真髄である。これを体得すれば、輪廻の苦しみから解脱すると言われている。このことを悟ることが救いの道である。形而上、叡智界においては、即因果応報なのである。形而下、現象界ではすぐには報いが現れないかもしれないが、形而上、つまり神様はすべてお見通しなので、時間の差異はあれど必ず報いがある。目に見えない世界では因果律というものは速やかに働き、結局この目に見える世界に生きる我々を逃しはしない。「天網恢々、疎にして漏らさず」という。そして、たとえ現世での裁きを免れたとしても、必ず「すべての隠されたものが暴かれる日」が来るのである。このことをよくよく肝に銘じておくべきである。

 しかれども、神仏は憐れみ深いお方なので、形而上での裁きと同時に、罪の赦しも決定している。それはとりわけ、キリストの十字架や阿弥陀如来の本願によって保証されている。当社の五烏神の御誓願も、病の癒しのみならず、それと同一であるとわたしは考えている。死ぬまで懺悔の心を起こさないのならば、あるいは地獄の責苦を受けるかもしれないが、懺悔の心を起こせば神は必ずお許しになり、天国や浄土に迎えてくださる。究極的には、懺悔の心を持たない、いや持てない人間の宿業といったものも神はすべてご存じである。我々は必ず救われるのである。

 哲学者はいう。

「自己が救われるということは、他人を救うという働きのうちにのみ存する。これは自他不二の倫理からの必然的帰結である。」

 それゆえ、わたしは序論において、苦悩にある者も人の役に立つことができると言ったのである。

 この黄金律を在家の覚者、維摩菩薩はこのようにいう。

「今この世界は衆生病むをもってこの故に我れ病む。もし一切衆生の病いを滅せばすなわち我が病いも滅せん。衆生病む時はすなわち菩薩も病み、衆生の病い癒ゆれば菩薩もまた癒ゆ。菩薩の病いは大悲をもって起こる。」

 また汎神論、あるいは即身成仏についてこういわれている。

空海「まさに次のように理解しなさい。密教の修行者は、自らが金剛界の大日如来にほかならない。自身が金剛になれば、堅固、かつ確実であり、傾いたり、壊れたりすることはない。私は、そのような金剛の身体となろう。」

立川武蔵「この飛躍をわれわれの現代の言葉で語るならば、それは「すべてに対して聖なるものの価値を与えること」である。密教はすべてのものが大日如来の働きであるという立場に立つのである。」

 華厳経から引く。

「ひとつの毛穴の内に思考することができないほど多くの世界がある。微細な塵の数にも等しいほどであって、いろいろ存在している。その世界の一つ一つに、大日(遍照)尊がましまして、人々のつどいの中にあらわれて、最上の教えを宣べられている。そして一つの塵の中に大小の世界があり、さまざまに相違していることは、また無数の塵のように多くである。すべての世界に存在する塵の、その一つ一つの中にみな仏が入っておられるのである。」

 この教説は、先の金子みすゞの詩と軌を一にするものである。

 五智のうち第五の智慧については、末那識、阿頼耶識の次の九識目に、第五の仏智として法界体性智が充てられている。

 以上のことを踏まえて、黄金律ならぬ金剛律について述べよう。欲望を満たすためにそうするのでもなく、罰せられることを恐れてそうするのでもなく、ただ言われるがままにそうするのでもなく、そうしないと非難を浴びるであろうからそうするのでもなく、そうすれば称賛が得られるであろうからそうするのでもなく、そうしないと良心が痛むからそうするのでもなく、死後の果報を気にしてそうするのでもなく、「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。」、「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。」ゆえにそうするのでもなく、そういった自分にとっての利害を考えた、あらゆる損得勘定から離れて、烏住するが故に、自己と他者の利害は同一であるが故に、「一切は自分自身であるが故に」そうするのである。これが汎神論によって導き出される金剛律である。これに勝る道徳への服従の根拠があろうか。カントのいうあの定言命法という「道徳律への尊敬」よりも、よほど直感的で実感があり、より善行に対して積極的になりうる。世の啓示を受けたといって慈善を行う者たちは、このような全く無私の、他者に対する真摯な共感のうちにあるのであろう。「大いなる利己心」、「極大化された自己愛」とでもいうべきか。法や道徳に従う動機として、これを「信じ」なければ成立しないものだが、最も清浄で高貴と思われる道徳律である。

 弁神論・神義論は長年わたしの頭に去来する問題であった。しかしそれはまさに、自分がいたらない、浅ましい、徳のない人間だから、小烏の汎神論と一致できなかったのである。いたらないから世を呪っていたのである。天神地祇に罪責はないことはいうまでもない。今となっては、自分は神様に病を治してもらうに値する人間か?と訝しむようになった。

 コーランは人間ムハンマドの言葉ではなくアッラーの啓示なので軽々しく扱うわけにはいかないが、イスラームにおける類似した神秘主義者たちの境地を書いておく。

 聖女ラービアはこのようにいう。

「おお神よ、もし私が地獄の恐怖からあなたを礼拝するのでしたら、私を地獄で焼いてください。もし私が天国が欲しくてあなたを礼拝するのでしたら、私をそこから追放してください。しかし、もし私があなたご自身のためにあなたを礼拝するのでしたら、どうかあなたの永遠の美をお取り下げにならないでください。」

 先に批判したアル=ガザーリーも晩年はスーフィズムに熱中したそうである。

「彼ら(スーフィー)の目には一者以外には何ものも見えないし、また自己自身すら見えない。彼らは自己自身から死滅している。他を見ることからも死滅している。神以外の何ものも心の中に入り込まないように心掛けねばならない。」

 ルーミーに代表されるスーフィーたちの精神的段階は次のようなものである。五烏教はスーフィズムと相性がよい。

タハッルク:人間的属性をすべて死滅させ、神的属性を獲得すること。

タハックク:自己の本質を死滅させ、自己の中で自分が絶対者と一つであることを悟得すること。

タアッルク:これはファナー(死滅)のあとにくるバカー(存続)の状態。「絶対者の行為の中への自己の行為の死滅」と言われる。存在しているのは自分ではなく、絶対者そのものであると意識する。何をし何を見ても、それをするのは自分ではなく神である、との意識である。こうして聖者性(ワラーヤ)が完成する。

 これこそ真の法悦である。まことに、このような人々をこそ神は嘉されるのである。

 

平田篤胤「誰も誰も、生れながらにして、神と君と親とは尊く、妻子のかはゆいということは、人の教へを借りんでも、見事に知って居る。」

 葉室はいう。

「この世の中の仕組みというのは、全て循環で成り立っているのであって、捨てるという仕組みにはなっておりません。だから消すとか除去するということではなくて、素晴らしい神の力が体のなかに入ってくると、いままでの罪穢れがなくなるのではなくて、それが今度は自分を生かす素晴らしい力に変わってくる。それが祓いではないかと思うのです。」

 ユゴーはいう。

「海よりも壮大な光景がある。それは空だ。空よりも壮大な光景がある。それは人間の魂の内部だ。」

 さらにジェヴェールにバルジャンに対して感慨の念を漏らさせる。

「あの惨めな男(ミゼラブル)が崇高な人間だと認めざるをえなくなった。慈善をほどこす犯罪者、情け深く、優しく、人助けをし、寛大で、悪に報いるに善を、憎しみにたいして赦しをもってし、復讐よりも憐憫をよしとし、敵よりもわが身を滅ぼすことを選び、じぶんを打ったものを救い、徳の高みで跪き、人間よりも天使に近い徒刑囚!」

「神による正義は人間による正義とはどうやら逆方向のものらしいということ。」

 さらにユゴーは続ける。

「愛とは唯一無二の法悦である。愛のほかは、すべてが涙である。愛すること、あるいは愛したこと、それだけで充分なのである。人生の暗いひだのなかには、それ以外の真珠は見いだすべくもない。」

「良心は底なしなのだ。それは神に他ならないのだから。」

 すべての生きとし生けるものに対する愛情を持つこと、これこそが法悦である。

 以上の宗教的倫理・道徳は、前述の形而上学的裏付けがあるため、決して虚しいものではない。むしろ、この根底的な法に則って世界や人類が生活すれば、この教えを世界中の人々が受け入れるなら、世界は一瞬にして平和になる。だから五烏教は単なる村の祠から世界宗教となりうるのである。世界は戦争に限らず、家庭や社会においても争いが尽きないものである。ここで敵をも受け入れていく「怨親平等」の観念、キリスト教が説く敵をも愛するということがいっそう大切になってくるであろう。

 ここにおいて、四章におけるゾロアスター教的二元論と、本章におけるスピノザ的汎神論、あるいは一元論は矛盾せず、止揚(アウフヘーベン)する。二元論においては善悪は分かたれ、神と波旬は対立する存在だが、五烏汎神論においては、五烏大明神は善悪や美醜を超越する存在であり、波旬さえも神の慈悲の御心が表れた五色の翼のうちに包まれる。現象界の時間の中では戦いがあるが、叡智界の永遠の中では平安があるのみである。真相は波旬という悪の実体は存在せず、それは仮のもので神のうちにあり、ただ神の唯一の実体があるのみである。最後は、五烏神は波旬をも滅ぼすのではなく、赦し包み込むのである。波旬はジャヴェールのように、バルジャンの慈悲によって剣を収めるのである。神の五色の光は、深い闇の中にいる波旬さえも照らす。これこそ終局における思し召し、また烏我一如と言わなければならない。

 つまり、先のジャヴェールの叫びは、ザラスシュトラの境涯なのであり、バルジャンの境地は五烏大明神の御心なのである。五烏神学は善悪二元論と純粋な汎神論を融合した重層的汎神論なのであり、その中間層で地上の災厄から天上の安楽へと導くのは、中有から我々を守護されている神の思し召しの御力である。

 マヌ法典より

「一切の生きもののうちに自己を見、また自己のうちに一切の生きものを見て、アートマンを祭る者は絶対の自由に到達する。」

 さらに哲学者の言葉も引く。

「人が一切の生きとし生けるものは自分自身にほかならないと体得したときに人はもはや利己的に行動することなく、一切の生きと生けるもののために活動することとなるのである。」

 哲学者が指摘しているところであるが、以上の観念の違いから、西洋人が合掌するのは神に対してだけであって、インド人や南アジアの人々は互いに合掌するという。どちらが平和により近い思想かが人をして現れているであろう。

ヤージニャヴァルキヤ「実に、夫を愛するがゆえに夫が愛しいのではない。アートマンを愛するがゆえに夫が愛しいのである。実に、妻を愛するがゆえに妻が愛しいのではない。アートマンを愛するがゆえに妻が愛しいのである。」

 このように、真実の愛というものは、対立するものではなく完全に一体化している。

 またエリアーデは核心的なことを述べる。

「自己が自由で永遠で無為であると理解したその刹那に、われわれの身にふりかかること、苦、感情、意志、思考等々はすべて、われわれとは無縁なものになるのである。~われわれが、苦は精神の外側にあるもので、人間の「個性(アスシター)にのみかかわるものだと理解した瞬間に、苦はおのずから消滅する。」

 セネカはいう。

「われわれが苦しむのは土地の欠陥のせいではなく、われわれ自身の欠陥のせいだという事実を知らねばならない。」

 葉室賴昭はいう。

「罪・穢は全部「我」によっておこってくるのですね。我欲があるから、いわゆる病気になったり、いろいろ悩み、悲しみが出てくるのです。だから、我欲を祓いなさいというのが「祓い」ということです。」

「悪いことが見えるというのは、自分のこころのなかに悪があるから見えるわけです。昔から「聖人は悪を見ず」とよく言いますが、自分の体のなか、こころのなかに悪のない人は悪が見えないということです。」

 けれども、エリアーデはこのような救いようのないことも述べている。

「たしかにすべての人が、潜在的には仏陀としての本性をもってはいる。しかしその仏陀性(仏性)の実現は、各人の宿業の方程式に依存しており、つまり各人の無数の前世の結果である。」

 ここで言っていることは、歎異抄における親鸞の言葉と呼応している。

 『レ・ミゼラブル』において、修道女がこう書き綴っている。

「説教も、教訓も、暗示も差し控える、そのような思いやりのなかにこそ、なにか本当に福音書の教えにかなったものがあるのではないでしょうか?」

 我々は時に、悩み苦しめる人に言葉をかけるよりも、そばに寄り添い傾聴するだけの方がよい場合もある。

 

 先に形而上学については差し控えたが、重要なことは説き終わったので、少しばかり書いておく。

 アリストテレスの『形而上学』から抜粋する。

「動かされないで動かすところのある者があり、これは永遠的なものであり、実体であり、現実態(エネルゲイア)である。~自らは不動でありながら動かすある者が存在しており、現実態において存在しているから、このある者はけっして他ではありえない。~神は永遠にして最高善なる生者であり、したがって連続的で永遠的な生命と永劫が神に属する。~ある永遠的で不動な、そして感覚的事物から離れて独立な実体が存在するということは明白である。~あらゆる存在の第一のもの(窮極的原理)は、それ自体においても付帯性においても不動なものでありながら、しかもあの天界の第一の永遠的で唯一の運動を動かす者(第一の不動の動者)である。」

 実体とは、他の何ものにも依存せず、それ自身によって存在するものである。

 空海は『即身成仏義』においてこう論ずる。

「あらゆる存在は、多くの(原因や)条件から必ず生じているのであり、このように(原因や)条件から生じるものには、すべてに始原とか、根本にあたるものがある。いま、ここで、ものを生み出す条件を観察してみると、同様に多くの原因や条件から生じていることがわかる。このように、次から次へと変化して展開する(原因や)条件を遡及していくと、最終的に根本となるものはどのようなものかを見出すことができるのであろうか。このように観察するときには、本来生じたり滅したりしないあり方(本不生際)という究極的なあり方を知ることになるのである。これこそがあらゆる存在の根源である。~もし本来生じたり滅したりしないあり方という究極的なあり方を見る者は、ありのままに自己の心を知ることにほかならない。そして、自己の心をありのままに知ることは、すなわち、仏のさとりの智慧(一切智智)と異ならない。そのために、大日如来は、この阿字の一字をもって自らの真言としたのである。」

 両者ともに、宇宙の第一原因について論じているが、同様の思索をしている。よく仏教には実体の概念はないというが、絶対者を措定する時点で大して変わりはしない。西も東も、神も仏もおおよそ一致するものである。五烏教では、それは五烏大明神であり、祖先の夢枕に現れた五智如来、あるいは金剛界五仏にほかならない。ところで、時間というものは、必ず運動によって生じるものである。ここでは天地開闢の始まりの運動がそれを生じせしめたといえる。それを五烏神は、宇宙の始まりに「黄なる風」をもって生じせしめ、それが「五色の風」となったと表現しているのである。極めて神話的な表現だが、黄なる風とは五智のうちの法界体性智のことで、五色の風は他の四つの智慧、あるいは物質的な五元素のことである。つまり、イデアから現象界、形相から質料に至るまでの創造の過程を表しているのである。

 春秋戦国時代から続く陰陽五行説をまとめた隋の蕭吉は『五行大義』を著し、その冒頭においてこう表現している。

「五行とは、万物を生成するもとであり、人の道の始めである。天地間のあらゆる物は五行の変化を受け、全ての霊は五行に感じそれに通ずることによって生ずる。五行は、陰・陽にもとづき、精霊と形体に散らばり、天と地に周くゆきわたり、鬼神の世界と人間の世界とにおよんでいる。」

 これは東洋における哲学的な天地創造の説明であり、もはや五行は単なる物質ではなく、五智に近い形而上、霊的な段階にまで至っている。蕭吉は五行をイデアや形相、「黄なる風」が吹き起こった後の五色の風と表現した五烏伝説と並ぶものとしたのである。宇宙の運動が静止したとき、すなわち終末のとき、コーランにいう「いやはての日」には時間は止まり、我々は永遠に住するのである。それは元にいたゆりかご、神の御元に還るという魂の回帰にほかならない。

 

 わたしは物理学や天文学については、ほとんど無知に等しいが、多少の宇宙論の本は読んだことがある。そこでは、ビッグバンからビッグクランチに至るまでの理論が述べられていた。エントロピーやダークマターなど、およそわたしには畑違いのことが書かれていたが、それは決して五烏教と矛盾するものではないと受け止められた。ビッグクランチの後に、次の新たな宇宙の生成の可能性が説かれていたからである。これは四劫の概念と一致するものであって、近現代の科学者たちが苦心して解き明かしたことが、古代の思想家たちの直感や思索とも一致しているといえよう。ちなみに、葉室賴昭は自著においてたびたび、古事記の神話と湯川秀樹などの物理学者の論説を結びつけているが、わたしにはその真偽のほどはわかりかねる。宇宙の始まり、天地初発のたまゆらには何があったかということを過去の賢人たちは考えてきた。仏教では有でもなく無でもない「空」こそがそれであると説くに至った。ナーガールジュナ(龍樹)の『中論』で詳しく論じられていることである。ここでまた哲学者の言葉を引こう。

「現象界の諸相はそのとき存在しなかったのであるから「有ではない」と言わなければならない。しかしまたそれから現象界の諸相が現れ出てくるのであるから、それを単なる「無」と呼ぶこともできない。それは何かしら積極的な意味を持ったものでなければならない。そこで宇宙の最初の根源者を「有でもなく、無でもない」と言わなければならなかった。また現象的な物体があったとか、活動があったとかいうことも言えないのである。」

 また、ヨハネによる福音書で人口に膾炙していることであるが、宇宙の始まりには「ことば」があったという。神の言葉、法(ロゴス=ダルマ=道)というのは不滅であり、宇宙の生成と破壊を超えて存在するものである。

 言霊については神道者の言葉を聞こう。

「昔から言葉には霊力があるんです。だからいい言葉をいえばしあわせになるし、悪い言葉をいえば不幸がやってくる。私は宇宙の最初の心がこの地球上に言葉というものを必要とした。そのために人間を進化させたと考えているからです。人間に進化したから言葉をしゃべったのではない。言葉が必要だった。そのために人間を進化させたんだということです。」

「言葉というのは何度も言いますが、いわゆる神の心を表現するものなんです。人間の意思を伝えるものではまったくない。」

「悪いときにもいいと言いなさいというのは、なぐさめとか、そういうものではなくて、言霊の力によって現実にそうなりますよということなんです。いくら大変で苦しくても、悪いことばかり言っていてはいけない。」

 このように、わが国ではロゴスに該当するものに言霊があるのである。人に言い聞かせる言葉であれ、自分に言い聞かせる言葉であれ、神に向けた言葉であれ、善き言葉を使えば実際に状況は好転する。少なくとも自らの心は平安であることができる。「口は災いの元」であるが、逆に言えば「口は幸いの元」なのである。

 先に喪失について述べたが、今度は我々自分自身の死について論じることにしよう。我々は皆ことごとく、死という時限爆弾を抱えて生きている。五烏教では、神が中有界に留まっておられ、守護神となられている。小烏の神は、いわゆるエリアーデのいう「死せる神」「苦悩する神」である。神とてこの理から逃れることはできない。しかれども、なぜ神が中有に留まっているかというと、死なれたのは受肉した形での存在形態であって、現世にいる我々を救わんがために肉体を持って顕現されたからである。本来の姿、叡智界における「法身」としての神は死んではいない。それは不滅であり常住で、神には永遠に寂静が存する。この中有という言葉は、仏教の四有という概念に由来する。チベットの『死者の書』では「バルドゥ」という。つまり、五烏教は輪廻転生説であることがわかる。それゆえ、我々も死ねば生まれ変わって新たな生を送ると考えられる。しかれども、わたしは、小烏の神を信仰する者、五烏教徒は、死後は神と同様に中有に留まって、神や祖先、生前に縁があった先立った者たちと共に過ごすと考える。なぜなら、五烏大明神は我々衆生を憐れむ慈悲の御心から中有界に留まっておられるのであって、その神を愛する者たちは当然そこに迎え入れられるだろうからである。つまり、五烏教徒は神の恩恵で、輪廻から解脱して迷いの世界を離れるのである。そして、空劫の期間が終わり、世界の終焉が来るとき、「いやはての日」に天使たちのラッパが吹き鳴らされるとき、我ら五烏教徒たちは最後の審判を免れ、五烏浄土ともいうべき完全なる世界に住し神のもとで憩うと考えられる。いわばミゼラブルは、苦難の人生の代わりに最後の最後でチートすることを特別に許可されるのである。先の四有と四劫という概念は、五烏教では軌を一にするものである。すなわち、神の一生が宇宙の一生なのである。それは一神教に見られる直線的な時間ではない。かといって東洋的な循環型の時間でもない。ニーチェのいう永劫回帰、完全な円環でもない。真相は「螺旋型」なのである。螺旋は円を描きながら、端と端を伸ばせば直線である。循環してはいるが、やがては最後のときがやってくる。我々には祖先や前世と全く同じ個体というものはありえない。一方で、過去生を抜きにして全くの単独で現世に生を受けたわけでもない。それゆえ、この世界は完全な円でも直線でもない。この世界は螺旋階段であって、回帰かつ創造なのである。我々は幾たびも輪廻を繰り返し、次第に終末に近づいているが、それは最後に神にまみえるときまでの魂の試練なのである。我々の存在というものは、ふざけていえば蚊取り線香なのである。螺旋階段を登っている途中であり、登り切った先に神が待ち受け、自らのすべての過去生の総和が問われるのである。存在とはかくのごとき永遠のものであるから、できるだけ神を畏れ慎んで生まれ変わり死に変わりして過ごさなければならない。

 劫(カルパ)というのは、仏教思想で天文学的な時間の流れのことである。ヒンドゥーでは「ユガ」といわれ、やはり四つの時間に区切られている。すなわち、「クリタ・ユガ」「トレーター・ユガ」「ドヴァーパラ・ユガ」「カリ・ユガ」である。この四つが一巡すると一マハーユガといい、千マハーユガを一カルパ(劫)という。これは人間の時間で43億2000万年ということである。このように劫とは計り知れない時間単位である。ヒンドゥー教のヴィシュヌは、カリ・ユガの終わり、クリタ・ユガの初めに、第十アヴァターラ「カルキ」に化身して世界を再生させると言われている。これも小烏の神と共通するものである。

 四劫と四有についてエリアーデは説明する。

「宇宙的循環は、生、死、再生という同じリズムの無限の反復として考えられている。ヴェーダ時代以後のインドでは、この概念は二つの関連する教説、すなわち無限に繰り返される周期(ユガ)の教説と、魂の転生の教説に練りあげられる。」

 また黙示録的な終末論について述べる。

「黙示録的なヴィジョンは歴史の恐怖に対する防御を強化する。教えを受けいれた者たちは、同時代の破局のなかに、自分たちにとって慰めとなる前兆を読みとる。~つまり恐怖の念が強まることは、救いが間近に迫ったことの前触れなのである。」

 エリアーデはウパニシャッドについていう。

「死後に「知者」のアートマンはブラフマンと一体になるが、その他の無明の者たちの魂は輪廻(サンサーラ)の法にしたがうのである。」

 これは、五烏教徒が死後に小烏の神と永遠に憩うことと同義である。

「天空の上で、すべての上で、それより上にはほかに何もない最高の世界で輝いている光は、実は人の内部(アンタハ・プルシャ)で輝いているのと同じ光なのである。」

 さらに、チンギス・ハンがイスラームのイマーム(学者)に対する言葉として引用している。

「全宇宙が神の住居である。その一箇所(たとえばメッカ)をとくに指定してそこに詣でたところで、何の意味があるのか。」

 まさにこのような宗教観を持っていたが故に世界征服者になったのであろう。

 

 神道では前世と来世の中間を「中今」という。日本人の現世主義は万葉の歌人がよく表現している。

大伴旅人「この世にし 楽しくあらば 来む世には 虫にも鳥にも 我はなりなむ」

    「生けるもの 遂にも死ぬる ものにあれば この世にある間は 楽しくをあらな」

 反対にギリシア的悲観主義の人もいる。

山上憶良「日月は 明しといへど 我がためは 照りや給はぬ」

    「世の中を 憂しとやさしと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば」 

 源氏の君は歌う。

    「優婆行ふ道をしるべにて 来む世も深き契りたがうな」

 このように、日本人はどこまでも現世にしがみつく。

 葉室賴昭は中今についてこういう。

「中今というのは、神道というか日本人の生き方で、これは過去でもない、未来でもない、現在のいまを全力で生きるということです。あとは神さまにお任せする。これが中今で、昔から言われている日本人の生き方です。現在を生き切るということですね。」

 哲学者は日本の天皇や皇族には、自分たちを神聖化しようとする意識は乏しかったと述べている。ことに仏教に帰依した皇族にはその意識は全くなかったという。旱魃の際の清和天皇の詔勅を引用しよう。

「朕の不徳なり。百姓に何のつみかあらん。~朕の服御・常膳等の物は、すべて宜しく減徹すべし。」

 さらに、日本書紀から仁君たちの言葉を引用する。

垂仁天皇「およそ生きている時に寵愛せられたからといっても亡者に殉死させるのは、きわめて痛ましいことである。それが古来の風習であろうとも、良くないことならばどうして従う必要があろうか。今後は、議って殉死をやめさせよ。」

仁徳天皇「そもそも、天が君を立てるのは、人民のためである。従って、君は人民を一番に大切に考えるものだ。そこで古の聖王は、人民が一人でも飢え凍えるような時は、顧みて自分の身を責める。もし人民が貧しければ、わたしが貧しいのである。人民が豊かなら、わたしが豊かなのである。人民が豊かで君が貧しいということは、いまだかつてないのだ。」

 さらに、神代のイザナギが桃の実に命じる。

「お前は、私を助けたように、葦原中国に住むすべての生ある人々が、苦しい目にあって苦しみ悩むような時には、助けよ。」

倭建命「倭は 国の真秀ろば たたなづく 青垣 山籠れる 倭し麗し」

 ここでわたしが言いたいのは、日本礼賛ではない。日本人が他の民族に比べて優れているという思い上がりは捨てられなければならない。自国に誇りを持つことは大事ではあるが、あからさまに自慢するのはかえって国の品格を落とす。それこそ天皇陛下に見られるような、謙虚で控えめでありがながら威厳を保っていることが肝要である。とはいえ、白人(今や一部の黒人も)のアジア人に対する差別には毅然として対抗していかなければならない。それを思うと、日露戦争や黒歴史とされている太平洋戦争も、「黄色い猿(この表現自体が生き物に対する驕りの表れである)」と嘲られていたアジア人が目にものを見せてやった偉業である。我々は彼らの奮闘によって、日本人といえば舐められないようになっているのである。

 昨今の日本は低俗で道義心の低い国になったが、戦時中の神風特攻隊や回天(伊保庄島の西側の平生町に記念館がある)、南方の島々で玉砕した方々(伊保庄からも多くの若者が出征し全員玉砕した。賀茂神社の近くに慰霊碑がひっそりと立っている。わたしは彼らに心から頭を垂れる)は、後世の偉大な日本、立派な日本人のために死んだのであって、恥ずかしい国や低俗で下品なぼんくらどものためではない。

 母の大学時代の恩師のお父上に、東條英機らA級戦犯たちを看取った浄土真宗の教誨師がいるのだが、彼は『亡びざる生命』という著作で戦犯たちの最期の様子を綴っている。詳しくは省略するが、東條英機らは実は極めて高潔な人たちであって、それを見届けたマッカーサーを始めとするアメリカ軍将校たちもそれに劣らず高潔であった。マッカーサーはムッソリーニの最期のような非道な仕打ちはさせなかった。彼らのおかげで現在の穏健な日米同盟が築けているのではないだろうか。東條英機は子供の頃、ヒトラーと並んで悪党の代名詞のように教えられたが、実際は真っ直ぐで日本の将来の幸福を心から願い、万歳三唱と念仏を称えて死んでいかれた。わたしたちは彼らが願ったような立派な国を築けているだろうか。

 葉室賴昭はいう。

「天皇が庶民と一緒では困るんです。やはり純粋で、我欲がなくて、神の声を聞いてくださらなければ困るのです。」

 プラトンは哲人王制を理想とし、アリストテレスも君主制こそ最良の政治形態だと主張した。政治的なことを一点だけ述べるならば、小烏の神が天皇に仕えていたから、わたしも天皇に仕える。それは政治的には天皇制を支持して譲らないという主張になるのである。天皇家が他の王朝より長い歴史を持っているだとか、歴代の皇族たちが人民に対して穏やかな治世をしただとかいうのではなく、他の論はさておき、自らの神が天皇に仕えていたというただ一点において、おのずからそうなるのである。またわたしは個人的に愛子さまの大ファンであり、推古天皇の再来かアマテラスそのものと思っている。日本男児よ、大和魂を取り戻し愛子さまを守る近衛兵となるべし。

 ちなみに、わたしの家は河野氏なのだが、この伊予の豪族からは元寇のときに河野通有が出て、歴史の教科書に必ず載っている竹崎季長と並んで活躍してモンゴル帝国を破った。また同時期に「捨て聖」一遍上人を輩出し、踊り念仏を始めて時宗を開いた。戦国時代には長宗我部氏に押されて滅亡したが、日露戦争では秋山真之が河野水軍の丁字戦法を採用し、ロシアのバルチック艦隊に勝利した。このように、河野氏は目立たないが、物理的にも精神的にも日本を守ってきた一族なのである。おそらく、わたしは一遍上人の系譜であろう。偶然か必然か、我が家は代々浄土宗であり、祖先たちは一遍と同じように念仏を称えてきたから。さらに、五烏神の御誓願と阿弥陀仏の本願の構造はよく似ており、個人的にも浄土教には非常に心に響くものがある。それから、小烏の神々が最初に降り立ったのは伊予の石鎚山であり、この霊山を開いた役小角は賀茂氏の出自で、八咫烏を祖神とする一族である。何か含意するものがあるように思われる。

 

 さて、次に生きがいややりがいについて述べる。精神科医の神谷美恵子が『生きがいについて』という名著を書いているが、精神病患者は特に生きがいややりがいがあるものが見つけにくい。それがいっそう病を重くしてしまうのである。それゆえ、わたしたちは人生の早い段階で生きがいを見出さなければならない。

 本居宣長はいう。

「好きでもないことや不向きやことをやるのでは、どんなに努力しても、その成果は少ない。学問は、ただ年月長く倦まず怠らず、励みつとめることが肝要なのだ。」

 ルターはいう。

「人間の心は何か天職として従事すべき働きを持つべきである。もし持たないならば、悪魔が来て、誘惑と、気落ちと、悲嘆の中に投げ込むであろう。」

 無所住はいう。

「人間は十年、一つの道に精進すれば「十カラットの輝き」を手中にできます。~自分探しとは自分の魂が共鳴するものとの出会いを求めることです。」

 アリストテレスはここまでいう。

「われわれは哲学すべきであるか、それとも、生きることに別れを告げてこの世から立ち去るべきか、そのいずれかである。」

 セネカの極めて重要な言葉を引きたい。若い人々がよく心得ておくべきである。

「われわれにはわずかな時間しかないのではなく、多くの時間を浪費するのである。人間の生は、全体を立派に活用すれば、十分に長く、偉大なことを完遂できるよう潤沢に与えられている。われわれの享ける生が短いのではなく、われわれ自身が生を短くするのであり、われわれは生に欠乏しているのではなく、生を蕩尽する。それが真相なのだ。生を終えねばならないときに至って生を始めようとは、何と遅蒔きなこと。」

「やりたいこととやるべきことが一致するとき、世界の声が聞こえる!」

 あるアニメのセリフであるが、志向と義務が一致するとき、人はそれを見出すのである。わたしにとってそれは、本書を書くこともそうであるし、一連の「小烏プロジェクト」がそれにほかならない。

 『かんなぎ』という神道的な漫画があるのだが、その中である少年が「天職スイッチ」ということを言っている。すなわち、人は「好き」と「才能」と「環境」がすべて揃ったときに、そのスイッチが入っていわば心理学のフロー状態になるというのである。多くの人々は若き時代からそれに悩み、サルトルのいう「自由という刑罰」に苦しんでいる。我々は各々早めに、自分が打ち込めることを見つけなければならない。

 その『かんなぎ』の女神であるナギ様と小烏の神の共通するところが多い。

 御神木から神像が彫られていること。言葉遣いが伊保庄弁そっくりなこと。自分の命を捨ててまで衆生を救わんとする自己犠牲の精神。生きとし生けるものを生み出す創造神。そして、仁が大東の生まれ変わりのように、わたしは五烏社ノ地主の生まれ変わりである。なぜなら、そうでなければここまで小烏に思い入れることはないであろうし、本書を書くことにもならなかったであろうから。だから、預言者の生はわたしの前世なのである。神社に登って、形容しがたいなんとも言えない懐かしさを感じるのはそのためである。小烏はわたしのゆりかごであり、また棺でもある。わたしは小烏を、ロマンティックにいえば、「想起」したにすぎない。そしてこの御神木は、わたしにとっては北欧神話の世界樹ユグドラシルなのである。ロキのヤドリギによって光の神バルドルが死んだように、小烏の神も死にゆき、魔獣フェンリルによってユグドラシルが朽ち果てた以上、神々の黄昏は近いのではなかろうか。しかし、バルドルは新世界において復活するのである。わが不死鳥のように。

 

 ギリシアのことわざに、「神は自ら助くる者を助く」というものがある。

 わたしは神社で自殺しようとしたが、そのとき御神体が鏡であったことについて改めて述懐する。鏡というものは、もちろん自分自身の姿が映るものである。ということは、神とは自己の外部に存在するものではなく、自分自身のうちに存するということになる。ところで、神仏とは救済者であり、神の御心は衆生済度である。こうしたことから、神とは自分自身のことであり、さらに自分を救うのは自分であるということが導き出される。神=自己=救済者という答えが導き出された。

・神とは、お前のことである(我は汝なり)

・それなら、わたしは神である(汝は我なり)

・ところで、神は救済者である(我は救済者なり)

・しからば、お前は救済者である(汝は救済者なり)

・それゆえ、わたしを救うのはわたしである(汝を救うのは汝なり)

 神に祈るということは、すなわち自分自身に祈っているのである。

 先の黄金律によれば、他者を傷つけることは、究極的には自分自身をも傷つけることになる。それなら当然、自分を殺すということは、究極的には他者をも殺すことになる。だから自殺は悪である。しかし前述したように、自殺する者を死なしめたのは本人ではなく、そこまで追い詰められた人を助けなかった周りの者や社会である。二重の意味で殺人なのであるから、自殺というものは人間の最も不幸な結末といえる。我々はもはやいにしえの武士たちのように、名誉のために切腹するのではない。いや今でもそのために死ぬ者もいるが、多くは人や社会に裏切られたり切り捨てられたりした結果である。形而上的には自殺はむろん殺生戒を犯しているのであって悪であるが、けれども、自殺を思いとどまらせる一番のものは、表面上の言葉ではなく、その人を心から必要としている人(人でなくともよい)の存在である。自分を含めて、そういった存在が見出し得ない者のために、この教えを説いているわけである。わたしは信仰があったからこそ、この尋常ではない人生でも生きているのであるから。信仰なき人々は、わたしからしたらそんなことでと思うような大したことのない理由で死んでいっている。死んだら無になるという考えも結局は宗教、あるいは憶見(ドクサ)である。これが自殺者を増やしている隠れた要因であり、彼らは生前に宗教を嘲笑し、拒絶したが故に自ら死を招いていると言ってよい。死んだらおじゃんになるという都合の良い話はない。わたしが自殺を思いとどまったのは、魂の存在を信じており、その行く末を考えたからであった。神が授けたもうた命を放棄して、身勝手に死んでいくことを神が喜ばれるはずがない。まことに畏れ多いことであり、不敬虔なことである。悲しいことなのか喜ぶべきことなのかわからないが、わたしは誰かが助けてくれたわけではなく、信仰が踏みとどまらせたのである。信仰なき自殺者はある意味必然であろうが、現代はいわば無宗教という名の宗教を信仰する時代であり、極めて不幸と言わざるを得ない。

 この事例をもう少し推し進めて考えて、わたしは「烏鏡」という概念を説きたい。人を恨んでいたり不幸を嘆いていたりするとき、ふと本当は自分が悪かった、自分の責任、自分の弱さが原因だと思う瞬間はないだろうか。何かもう一人の自分が自分を見ているような感覚になることはないだろうか。わたしは歳を経るにつれ、この現象が多く次第に内省的性格になりつつある。わたしたちは往々にして、自身のいたらなさや愚かさに目を背けて、責任転嫁して他者を都合よくスケープゴート(心理的な犠牲)にしている場合がある。わたしの場合、とりわけ父親に罪をなすりつけて長年スケープゴートにしていた。神社に御神鏡が安置されているのは、不遜にも自分が神に成り代わって傲慢になるためのものではない。我々の魂は神的な部分(仏性)と獣的な部分(魔性)によって成り立っている。烏鏡とは己の神的な部分によって、より愚かな自己を映し出す鏡であり、都合よくこしらえた言い訳や自分の欠点を直視させる内的存在である。思慮深い烏の鏡で愚かな自己を映し出す。それによって己の未熟さをスケープゴートによって覆い隠している卑怯な自分を暴き出すのである。かのソクラテスは常にダイモーンという守護霊のような存在がついており、自身の行動を制限する声が聴こえていたというが、烏鏡とはそれに近いものである。また「人は鏡」というが、これはユングのシャドウという概念とよく似ている。曰く、人の嫌な部分が、実は自己の中にあるということであり、シャドウの統合が人格完成の要とされている。これらは烏鏡の概念とも似ており、要するに潔く自分の非を認めて受け入れろということである。つまり、親鸞やセネカが言うように我々はみな悪人・愚者なのであり、三章で述べたように、それを自覚するところに神は御顔を向けてくださるのである。この内的修行とも言うべきものを、烏鏡磨きと名付けることにしよう。烏鏡磨きは、孤独な状態に置かれることによって促進される。それゆえ、孤独さえも悪をも善用される神の深い思し召しと言わなければならない。

 ルーミーの言葉を引く。

「神は恋人のようなもので、こちらに髪の毛一筋ほどでも自己愛の情があれば、決して顔を拝むことすらできないのだ。」

 奇しくも北欧神話では、五烏大明神と同じく知恵の神であるオーディンに、フギンとムニンという二羽のワタリガラスが仕えている。この二羽は世界の情報をオーディンに伝える。このゆえにオーディンは「鴉神」とも呼ばれている。そして戦士の魂をヴァルハラ(天界)へ運ぶヴァルキリー(戦乙女)はカラスの化身ともいう。そこでわたしは、前述のダイモーンの逸話と結びつけて五烏者の霊魂の行方について考えてみた。

 五烏者にはソクラテスのダイモーンのごとく、各自にカラスのヴァルキリーが五烏大明神から遣わされ、守護霊か守護天使のようにつくことになる。彼女(彼)らは我々の内なる波旬との闘い、思し召し信仰や烏鏡磨きなどの内的ジハードを見守り鼓舞する。外的ジハードとしては、とりわけ不救済戒を守ること、すなわち弱き者や小さき命を守ることである。弱きを助け、強きを挫く。決して弱きをいじめ、強きに媚びてはならない。ヴァルキリーは我々のすぐそばにいて、髪の毛一本も見逃さずすべてを記録している。時には厳しいお咎めもあろう。見事に戦い抜いた五烏者の死後、その魂はヴァルキリーが迎えに来て、天の門まで導かれて神がおわします中有界(ヴァルハラ)へ赴く。ヴァルキリーたちは五烏大明神と魔王波旬によるラグナロク(霊的元寇)に備えて五烏エインヘリヤルを編成する。五烏者は死後も中有界でただ安穏と過ごすのではなく、波旬に対する神の思し召しの計画を霊的に援助するのである。そうでなければ我々と同じように苦難に見舞われるであろう後世の人々に対して無責任であるから。後の世の人々が不幸や悪に打ちひしがれているところに助けに入り、絶望している者を再び立ち上がらせる。輪廻を繰り返す魂を思し召しの力で導き、信仰や解脱に至らせ、螺旋時間の終末までにすべての魂をことごとく五烏浄土へと導く。それゆえ、五烏者は各所でいわばメシアとして機能する。仏教的に言えば廻向であり、これが霊界における五烏ジハードにほかならない。五烏者は三本足の信仰や烏鏡磨き、不救済戒や烏我一如といった内外のジハードによって五烏浄土へと導かれ、また来るべきラグナロクという霊的ジハードに参与するのである。以上のように、五烏者の霊魂は昇天後も、神の衆生済度の御心を実行する積極的なあり方をする。五烏者は不信仰者にも儚い生き物や自然、無念な思いで死んでいった者に対しても祈ることで彼らを慰撫する。そしてその魂は五烏浄土へ迎えられ、神のもとで癒され憩うことができる。真剣に祈られた魂は必ずいわゆる成仏する。というのも、神はすべての衆生を慈しんでおられ、決して御誓願の守護から漏れる者はないからである。慰霊すること、それもまた五烏者に課せられたジハードである。

 ゲーム『ヴァルキリープロファイル』より。

レナス「魂の束縛は消えた。その場に留まる理由はもうない。」

 『エッダ』巫女の予言より。

「ヴァルキューレたちが、英雄たちのもとへ、馬をはしらせんと、彼方より天翔るのを、わたしは見た。」

 『スノリのエッダ』グリームニルの歌より。

「ヴァルハラには 五百と四十の扉があらん 狼との戦に赴くとき 八百人の戦士 一つ扉より 一度に打って出るなり」

 

 ところで、これはわたしも修行中の事柄なのであるが、この梵我一如の思想からは、「真の自己は無敵である」という究極的な奥義が導き出される。そのことはシャンカラが以下のように述べている。

「身体をアートマンと同一視するものは苦しむ。身体を持たないもの(アートマン)は熟睡状態にあるときと同じく、覚醒状態において本来苦しむことはない。見(アートマン)から苦を取り除くために、聖典などは、「君はそれである」といっているのである。」

「なぜなら頭痛などのために、自分自身を「私は苦しんでいる」と考えるから。見者(アートマン)は、苦しんでいる対象とは別のものである。この見者は、認識主体であるから、苦しむことはない。」

「誤って「私は苦しんでいる」と考えるために、人は苦しむのであって、苦しんでいる統覚機能を見るために、苦しむのではない。四肢などとの集合体(身体)の中にあって、この苦を見るものは、苦しむことはない。」

「「私は苦しい」という観念は、身体などを、「私」であると誤って考えることから確実に生ずる。「私はイヤリングを持っている」という観念のように。」

「触覚も身体もないのであるから、私(アートマン)は決して焼かれることはない。それゆえに、私は苦しみを受けている、という観念は、自分の息子が死んだときに、私は死んだという観念が起こるように、アートマンに関する誤った理解から生ずる。」

「「私はイヤリングを持っている」というこの観念は、じつに識別智を持っている人によって否認される。同様に、「私は苦しみを受けている」という観念は、つねに「私は絶対である」という観念によって否認される。」

「夢眠状態において、焼かれたり、切られたり、などの理由から、私は今日、苦しみを受けたが、苦しみは天啓聖典の文章によって消滅した。」

 切られたり焼かれたりしても苦しまないと言っているが、それは真の自己には苦しみはないということである。たとえば、歯が痛いとき、わたしたちは痛みに悶絶するが、痛いのはその歯がある部分であって、真の自己(アートマン)、仏性は傷まないのである。もっと言えば、心ない言葉、誹謗中傷を受けても、心(意)という器官は傷つくかもしれないが、内奥の仏性は傷つかない、無傷なのであって、人はそれを見誤り苦しんでいるのである。苦しんでいる自分が本当の自分であると錯覚して、真の自己を見失ってしまっていること、すなわち「無明」こそ、あらゆる苦悩の根源である。悩み苦しみは、常に自己の外部から生じている。心身ともにとらわれてはならず、ただ己が持つ最高の部分に即して生きるべきである。仏性はダイヤモンドのように堅固で壊されることのないものであるから、何ぴともそれを破壊することはできない。ここに我々衆生の存在、ひいては神仏の不死性・不滅性が証明されるのである。

 仏教聖典から引こう。

「あざけりも来れ、そしりも来れ、こぶしも来れ、杖や剣の乱打も来れ、わが心はそのために乱れることはない。」

 ひろゆきのいう「無敵の人」は追い詰められた「窮鼠猫をも噛む」ような人々にすぎないが、真の無敵の人はこのようなものである。身の回りに起こるすべての物事(森羅万象)に動じない。平たくいうと、自分は神だと思えば苦は自ずと消滅する。なにしろ、神と呼ばれるからには常に清浄で寂静であり、浄福のうちにあるからである。我々が神のうちに住しており、また神が我々のうちにある限り、それもまた然りである。本来、我々には苦もなければ病や老いもなく、死すらもない。真の自己は無敵なのである。たとえ肉体や精神が病んでも、我々の内奥にある真の自己は病まない。ここに小烏の神の救済の御誓願の証明が再確認されるところである。つまり、御誓願の病を除くという真意は、病のない自己に気づかせることであるという霊的な側面をも持つ。阿弥陀如来の本願がすでに成就しているように、小烏の神の御誓願はこの意味ですでに成就しているのである。こうした教えは我々凡夫にはやや非現実的な立言であり、ここまで至るには懸命な精進と智慧を要すると考えられるが、不動心・金剛不壊の魂を得るために日々努力していきたいものである。シャンカラは三十二歳、または三十八歳で没したと伝えられているから、あながち時間的・年齢的なものは関係ないと思われる。自戒の念を込めていうのだが、我々は頭ではわかっても体得できないといったことがしばしばである。悟りを得る得ないは、我々の日々の心がけ、心持ち次第である。

 

 そもそも、わたしがなぜこれほど宗教的な人間かというと、幼い頃より母親の影響というかしつけで、「真如苑」という真言系の新興仏教を信仰していたからである。それこそ、タブララサの状態から信心を具備していた。それゆえ、わたしは世間一般の人々とは正反対で、信仰があるということがデフォルトなのである。しかし、小学校高学年くらいから家庭的に尋常ではないことが続き、まさに神も仏もない阿鼻叫喚の地獄を経験して、ついには信仰を失ったというトラウマを持っていた。それを前述したキリスト教のとある牧師の教えで救われたが、その方は次第に思想が変わってしまい、違和感を覚えキリスト教とは疎遠になってしまった。小烏神社の山では幼い頃から神に見守られながら遊び回っていたが、信仰としてはっきりと芽生えたのはひきこもりになった十代の頃からであり、物心つく前から信じていたのは、この真如苑の信仰である。それゆえ、わたしは昨今問題となっている宗教二世であるが、今は自分の道を歩んでいる。あの元首相を撃った者とは違い、自分の頭でものを考え出して、一種の自己超克をしたと思っている。真如苑には「霊能者」と呼ばれる霊位の高い方々がいて、入神する際に唱えるのが「護身神法」という密教の秘密の呪文である。それを子供の頃から聴いていたので、小烏の神の誓願の「命根長養」と「五臓安寧」という御言葉が、それに由来するものであると奇跡的に発見した。神の御言葉を体で覚えていたのである。これもすなわち思し召しなのである。

 その真如苑の開祖・伊藤真乗の教えを引く。

「人生というものは、見様見方により、”お浄土”ともなれば、”穢土”ともなる。たとえば、一滴の水も、金魚の眼から見れば、家にも映るのだが、人間の眼から、水は水としか映らない。また、悟りの世界から、これを見ると、そこには替え難き生命力を見出すこともあろう。このように、同じ一つのものを見るにしても、心の在り方、持ち方により、さまざまな受け取り方ができるのである。すなわち、心の持ち方で、”地獄”の世界もあり、悟りの浄土、”極楽”も顕現するものと言えよう。

 ここで、真理(みち)を求めさせていただく者にとって、大切なことは、こうした心の持ち方、一つによって、み仏のみ跡につづくところの、一如の精進もできるし、邪に随順して、苦しみ迷いの道に陥ちていくこともあり得る、ということである。」

 ここに涅槃(ニルヴァーナ)が現前するか否かがかかっているのである。

 

 イブン・スィーナーは霊魂の存在をある実験によって証明している。曰く、目隠しした人間を宙吊りにして、その者に残っているものがそれであると。

 マルクス・アウレーリウスは死後の魂についてこういう。

「魂も空気の中に移されてからしばらくの間そのままでいて、やがて変化し、飛散し、宇宙の創造的理性に取り戻され、そういうやり方でそこへ住処を求めに来る人たちに場所を備えるのである。魂が死後も存続するという仮定をすれば、以上が人に与えうる答えである。」

 五烏教では、輪廻を認めつつ終末があるとするが、我々が今生に死んで生まれ変わるまで、そして最後の審判までの時間はゼロ秒である。なぜなら、我々が毎日眠りにつき、朝に目が覚めるまで不眠症でもない限り時間感覚はないからである。そのように、転生と復活する際には、まるで眠りから覚めたようにすぐに時間が連続している。それゆえ、我々に時間的猶予はない。最後の生の終わりにすぐラッパ(日本でいうなら法螺貝である)が吹かれる。よくよく警戒されたし。

 かつて恩師の牧師から聞いたことだが、復活の際には我々は、三十歳前後の肉体を持ってよみがえるという。これは中世の神学者たちが真面目に考えたことということであった。それゆえ、軽視すべき事柄ではない。夭折した子供たちは成長した大人の姿になって、また老人たちも若かりし頃の姿となって復活するのである。まことに希望の持てる話ではないか。

 『ブッダの瞑想法』から引用する。

「心が変わらなければ、人生は何も変わらず、苦(ドゥッカ)から解脱することもできません。」

「どのような劣悪な環境の中にいても、不平も不満もなく、むしろ自分を向上させるために天が与えてくれた最良の情況と心得て、淡々と受け容れていくことができるならば、ドゥッカ(苦)はありません。心が浄らかであれば、どんな苛酷な運命の人でも幸福に生きていけるのです。」

 そのほか、具体的な実践行として鈴木正三の言葉を引く。非常に現代的な価値のあるものとなっている。

「農業則ち仏行なり。意得悪しき時は賤しき業也。信心堅固なる時は、菩薩の行なり。」

 ここでは要するに、どんな仕事でも真面目に誠実にやるならば、信仰の道に違わないということである。これは近江商人の「三方よし」、すなわち「売り手よし、買い手よし、世間よし」という商いの理念とも軌を一にする。

 エリアーデはイスラームの神秘主義について言及する。

「哲学的思索はみずからの霊的自己実現と相携えて進んで行く。彼らは純粋な認識を求める哲学者の方法と、自己の内的浄化を追求するスーフィーの方法とを再統合しているのである。~哲学と神秘的観想の双方に秀でた賢者こそが、真の霊的首長、つまり極(クトブ)なのであった。~楽園にいたことの想起と最後の審判のラッパの待望とは、最古のスーフィーの伝承以来みられるテーマである。」

 マイモニデスについても説明する。

「彼は、哲学的性格の認識も、死後の生命を確保するのに不可欠の条件であると断言してためらわないからである。~結局のところ、「不死」なるものとは、地上に生きているあいだに獲得した形而上的レベルの認識の総体にほかならない。」

 ゆえに我々は、哲学も神秘も備えて死ななければならない。

 わたしは各宗教の祭祀や儀礼を否定はしない。しかれども、神や仏といった存在にそういったものが必要とは考えない。なぜなら、神は完全に自足しており、自らに足りぬところはないし、だからこそ神と呼ばれるのであるから。神が必要とされているのは、あくまでも我々衆生の幸福である。神は我々に何も求めてはいない。ただ我々を愛して、幸せを願っているのみである。

 哲学者は神が求めているものについて説明している。

「中世の神道家たちは、次のように主張した。「神を喜ばせるものは、物質的な供え物ではない。真の供え物は徳とまごころ(信)である」。心の清浄ということは特に尊重された。」

 神がご覧になるのは結局、ただその人の心のみである。ただ神は気高い高潔な精神しかよしとされない。

 人が死んだらどうなるかという話を我々はたまにする。わたしはその際は「信じた通りになる。無になると思えば消えてなくなる。生まれ変わると思えばそうなる。天国と地獄があると思えばそうなる。ただし、どちらに行くかは自分の胸に手を当ててみればわかる」などと答える。

シャーンディリヤ「人間がこの世において意向を有するがごとくに、この世を去って後には、そのごとく存在する。」

ピュタゴラス「この世における汝の願望と努力とを第一原因との結合に向けよ。しからば汝は永久に存続しうるかもしれない。」

 誰が無になるなどと吹聴したのであろうか。しかれども神は不信仰者たちをも憐れまれる。

 哲学者が述べていることであるが、真の念仏者は祈らない。なぜなら、祈りとは強要や義務に基づいてなされるものではなく、神仏の救いにあずかったときに自ずから唱えられるものであるから。

 仏教の六波羅蜜でいうと、思し召し信仰は忍辱、神の頷き信仰は禅定、畏れ畏む信仰は持戒にあたる。経済的弱者に布施行はできないし、学習性無力感の者に精進行はできない。その中でも特に忍辱と持戒には励んでいただきたい。禅定はあくまで精神的なセーフティネットとして頭の片隅に入れていてほしい。

トゥルシーダース「生きとし生けるものに愛を示せ。そうすれば汝は幸福となるであろう。なんとなれば、汝が万物を愛するときに、汝は主を愛するのである。主は一切であるから。」

ラーマクリシュナ「神は万人のうちにある。しかし万人が神の中にあるわけではない。これが人々の苦しんでいる理由である。」

哲学者「だからわれわれは人を愛すれば愛するほど、われわれは神に近づくのである。」

 他者を愛すること、それがすなわち自己が愛されるということなのである。

 

 この教えが政治的にも反映されるなら、小烏の時代の聖徳太子がすでに理法をもって国を治めている。

 聖徳太子『十七条憲法』より。

第一条「一に曰く、和をもって貴しとし、忤うことなきを宗とせよ。」

第十条「心の中で恨みに思うな。目に角を立てて怒るな。他人が自分にさからったからとて激怒せぬようにせよ。人にはみなそれぞれ思うところがあり、その心は自分のことを正しいと考える執着がある。他人が正しいと考えることを自分はまちがっていると考え、自分が正しいと考えることを他人はまちがっていると考える。しかし自分がかならずしも聖人なのではなく、また他人がかならずしも愚者なのでもない。両方ともに凡夫にすぎないのである。正しいとか、まちがっているとかいう道理を、どうして定められようか。おたがいに賢者であったり愚者であったりすることは、ちょうどみみがね<鐶>のどこが初めでどこが終りだか、端のないようなものである。それゆえに、他人が自分に対して怒ることがあっても、むしろ自分に過失がなかったかどうか反省せよ。また自分の考えが道理にあっていると思っても、多くの人びとの意見を尊重して同じように行動せよ。」

 これはセネカの訓戒と見事に呼応しているが、世の政治家の方々には、どうかこれを信条として国を治めていってほしい。ことに政治家は成功者であるから、弱者の気持ちはわからないものであるが、もし自分が生まれや育ちが悪かったら、そして病気や障害、その他あらゆる不幸になってしまったらということを考えてほしい。二十歳そこらの頃、NHKの番組でマイケル・サンデルという哲学者の講義を見ていたら、『正義論』で有名なジョン・ロールズという政治哲学者の話をしていた。曰く、「未知のベール」という概念が説かれていて、我々がもし生まれてくる前に世界が未知のベールに閉ざされていたとして、自分がどのような遺伝的・環境的要因で生まれてくるかがわからず、そのような状態で生まれてくる世界がどのようなものであるかを望むかということが問われ、もし重い障害や劣悪な環境に生まれてくる可能性があるとしたら、必ずそういった社会的弱者に優しい国家・社会を望むであろう、ということであった。これは全くもってその通りであり、いわゆる親ガチャ、血筋・環境ガチャなど、運命に恵まれなかった人々に対して最大限配慮された社会であらねばならない、という結論に至るのである。わたしの周りには、政治家や一般人は想像もしたこともないであろう、弱者どころではない凄まじい環境で育った狂人や寝たきりに近い人々がいる。彼らは若くしてすでに老人である。しかも現代社会は、そういった人々に対して経済的にも精神的にもサポートが十分ではない。かえって差別や偏見、ひどい場合には虐待や虐殺の対象である。信じられないことだが、医療関係者でさえそうした差別感情を持っていることをわたしは見抜いている。健常者と障害者の境目にいるわたしやある友人は、それをはっきり見抜いていて、義憤の感情を覚えている。彼らは確信犯的に患者を見下し、自分たちの生活はしっかりと死守して、患者とスタッフとの間に厚い壁を設け、わたしたち患者をいわば飯の種にしているに過ぎない。医療・福祉の世界でさえ優生思想から脱却できていない。およそ宗教心のない医療スタッフなど、この程度であり、そもそも国家が宗教から権威を剥奪し、医療に権力を持たせたのが不幸の始まりである。現代の一見まともで平均的な人々ほど冷たく残酷で恐ろしいものはない。だからカントは中島義道の言う通り、どんな大悪党よりも普通の一般人こそ一番の悪人だと言っているのも頷けるというものである。こうしたことほど不幸なことはないのであるから、世人には自分がもしそうなったら、という思いやりのある思考をしてほしいものである。

 ゲーム『ファイナルファンタジータクティクス』の没落貴族・アルガスの屈折した気持ちがよくわかる。

アルガス「家畜に神などいない!」

 わたしは、DIR EN GREYというバンドが好きなのだが、リーダーの京が会報で心の病に共感しこう書いていた。

「だから周りにもしそんな人がいたら、何が助けになるのかわからないけど、理解してあげる努力をし、抱きしめてあげてほしい。」

 彼らは一見、攻撃的で破壊的な印象だが、歌詞にも表れているように人の痛みに寄り添う心優しき人々である。

 やや話が脱線したが、これが五烏教が政治にも反映された場合の姿である。なにしろ、神はすべての人々を守護されるのであるから。救いに漏れた人々をも救うのが御心の広い小烏の神様なのである。そもそも、政治や社会がどうあろうが、それもわたしたちに与えられた神の思し召しであって、過度に嘆いたり憤るのではなく、それをどう受け止めていくか、どう福に転じていくかが問われているのである。自らのプライベートな領域で浄化すること、それは我々自身の心がけにかかっているのであるから、自らを顧みて日々精進していかなければならない。それこそが烏我一如の道にほかならないのであるから。

 

 わたしが愛鳥のオカメインコを亡くしたときに綴った慟哭を書いておく。

 俺が欲しいもの:自分を絶対に裏切らない人、信じられる人、自分の100%味方でいてくれる存在=小烏といずみ、だった。

 いーちゃんはどこにいるの?墓場?カゴの中?中有?天国?生まれ変わったの?無になったの?復活するの?俺の心の中?肩の上にいるの?魂は存在するのか、するとしたら肉体の死後、どこへいくのか。違う次元の存在のそばにいてあげるにはどうしたらいいのか。祈る、思い出す、口笛、語りかける。物質的・物理的に離れていても、霊的にはつながっているはず。五感では接触することはできない。霊は時空には縛られない。自由だ。俺は今、肉体を持って現象界にいる。でも霊魂も同時に持っている。いーちゃんは全くの霊的存在になった、霊と霊でしかそばにいられない。俺の霊は今、肉体を動かしている。いーちゃんの霊は今どこに?俺はいーちゃんを心で想うことしかできない。それがいーちゃんのそばにいてあげることかわからないけれど。いーちゃんは遠くへ行ったのではない。中有界、現界と重なりあったところにいる。守ってくれる存在は神、守ってあげる存在はいーちゃん。俺ができることは「霊的」にそばにいることだ。いーちゃんはご先祖様と神様がついている。だから寂しくないよ。ただ俺が来るのを待っている。「負けないで」を歌いながら。俺がしなければならないこと、いーちゃんの願いを叶えてあげること。ずっといーちゃんのそばにいてあげること。

 いーちゃんが教えてくれたこと

 青い鳥は外にはいない、身近にあるということ。青い鳥はいーちゃん自身であったということ。家族が大事、自分もいつか死ぬ(死の自覚)、小烏との一致、軽薄な連中との訣別、置いていかれる寂しさ、悲しみ、恐怖、いーちゃんの穴、いーちゃんのかけがえのなさ、言葉の幸せの嘘、社会的レッテルで俺を見なかったいーちゃんのありがたさ、いーちゃんはどこへ行った?中有にいるということ。俺の最後の願い、いーちゃんとまた会いたい、それは叶えられる。信仰上、論ずるまでもない。いーちゃんとはまた会える。転生でも復活でもどちらでもいい、願いは叶う。自分を愛してくれる人を願ったら現れ、自分を必要としてくれる人を与えてくださいと祈ったら、人ではなく鳥が与えられた。いーちゃんは神と共に常住で永遠である。いーちゃんはあの天の門の向こうで、真っ先に迎えてくれる。いーちゃんは今、ご先祖様や神様と一緒にいる。守護神、守護霊となり、俺が来るのを待っている。負けないでを歌いながら。

 祈りは必ず聞き届けられる。なぜなら過去、何度も切実な祈りが叶えられたからだ。すなわち、母の命を救ってくださったこと。自分を深く愛してくれる女性を与えてくださったこと。そしてそれが破れたあと、こんな俺をあんなにまで慕ってくれる、心から必要としてくれるいーちゃんを送ってくださった。それゆえ、願いは必ず聞き届けられる。以前、いーちゃんとまた会わせてくださいと祈った。これもきっと聞き届けられるだろう。今はただ、この病を治してください、罪をお許しください、あなたといーちゃんで満足できるように、わたしを強めてくださいと祈っている。神に不可能はない。いずれ必ず叶えられる。いーちゃんの死は宮島の女神様の追憶である。

 我も凡夫、彼も凡夫、聖徳太子の教え、いーちゃんとまた、わたしを強めてください。

 余談だが、書いておかねばならない現象がある。それは、綺麗な自然を見るとなぜか悲しくなることについてである。若干の快楽を伴った悲しみというべきものである。春から初夏にかけて晴れた日に、家の裏庭の新緑や、そこから見える青い空、廊下に差し込む陽などを見ると、とても切ない気持ちに襲われる。家の表から仰ぐ小烏の山や、はるかな空、琴石山などを見ても感じる。この感情に襲われるのは、夏の美しい空や海、みずみずしい新緑、森の中に差し込む木漏れ日、満月や燦々と照りつける太陽などである。他にも、伊保庄を自転車で走っているときに見る、青い空と海、みずみずしい山にも感じる。遠い記憶では、ネットゲームのFF11の美しい世界やLotRのモリアの坑道を出たところの風景にも感じていた。逆に秋や冬、曇りや雨の日などは何も感じない。それが普通だ。これらの現象について考えてみた。これらは総じて儚いものだ。いつかこの美しい世界を見ることができなくなる。わたしが死んでもこの世界はしばらくは続くだろうが、わたしが死んだら「わたしは」永久に見ることができなくなる。この瞬間のかけがえのなさ、わたしがこの世で感じたこと、生きたことはいったい何だったのか? だから悲しい。そして、わたしの心が暗黒に閉ざされていて、光明の世界とはかけ離れているからだと思われる。自分の心が闇に閉ざされているから、美しい光の世界に憧れる。憧れて手を伸ばすが、届きそうで届かない。やはり自分とは違う世界だと感じる。おそらく、この気持ちは普通の人は逆で、秋や冬にこうした感覚になると思われる。思うに、孤独なのに人に届きそうな切なさから来るものであろうか。かつて2ちゃんねるで「思い出補正」がかかっていると言われていた。

「あなたに楽園への扉が開かれますよう。」

 以上のことは若い頃に書いたものだが、今となっては若干修正が必要と考えられる。まず、自分が死んだらこの世界が永久に見られなくなるというのは誤りである。というのは、上で何度も述べたように、我々の存在は生まれ変わるものだからである。輪廻するが故に、いわゆるデジャヴという現象が起こると考えられる(わたしはこの現象が多いのだが)。だから、死んだらこの美しい世界と永久に別れなければならないというわけではない。あたかも、蝉が五年間も土の中にいて、這い出てきて羽を生やし、一週間だけ地上を自由に飛び回るように、我々もどのような形であれ、きっとまた同じような美しい世界を見ることができるであろう。けれども、この今世での一生は、限りなくかけがえのないものであることは明らかである。我々には現在・過去・未来という三世において、全く同じ生というものは存在しない。他者とも、過去の自己とも同じ生というものはありえない。現世でのこの一生は、とりかえのきかない唯一のかけがえのないものである。序論にて次の生で頑張ればよいと述べたが、それは我が人生もはやこれまでといった絶望した人々や、今にも天に召されそうな人々に対して言ったのであって、決して現世でのこの生を軽んじているわけではない。むしろ、この生こそが次の生への試練であり、前述したように魂の螺旋階段を登るにあたって、道の凹凸が激しくなるか緩やかになるかがかかっている。だからこそ我々はその道すがら、不浄なる邪から離れ、清らかで徳を積んでいかなければならない。そして最終的には、天使たちのラッパが吹き鳴らされるときまでの長い旅路なのである。まさに、楽園への扉が開かれることの待望と、遥かな昔に楽園で憩うていたときの想起なのである。けれどもわたしは、故郷の小烏や高洲の光景とは離れがたく、楽園や天国といったものは、各宗教の経典に描かれているような何の縁故もない新世界ではなく、前述した霊的な夢で観た世界であろうと考えている。あの天の門の向こうで小烏の神の御前に立たされ、公平で正当な裁きを受ける。それから、家族や生前に縁のあった者たち、祖先や神仏とは巡り巡って再会できると信じている。おそらくは、神が各々の心の憧憬、また桃源郷というべき、安らげる固有の箱庭をしつらえてくださるであろう。すなわち、もしあなたがこの教えを受け入れてくれるなら、わたしは霊夢で観た天の門へと導く者であり、その遥かな道のりを共に歩む者なのである。

 最後に、小烏の行としては、瞑想(マインドフルネス)と読経(筆者は五烏念仏と御誓願の朗誦、それに加えて般若心経と護身神法を唱えることもある)と祈り(心からの痛切な祈り)である。わたしは不安定なときは瞑想はハードルが高いので、読経と祈りだけで済ませたりする。とりわけ祈りは心が清浄になるのを感じて心地よい。これを朝夕やっている。瞑想は自分で描いた小烏の神々の絵を見ながら東南アジアやチベット風にやっている。瞑想などは習得にやや時間がかかるが、ぜひ心の健康のためにやってみてほしい。また、自分が観た霊夢の光景を思い描いて、想像力を膨らまし観想念仏をすることもある。そして、常に神を意識し、神との一対一の対話の時間を大切にしている。信仰を習慣化することが大事である。とはいえ、小烏には厳しい修行などはない。ただ清らかな優しい心を持っていてほしいだけである。そもそもミゼラブルにとっては、この受難の人生こそが修行であり、またこの世界そのものが道場である。何事も心がけ次第であるから必ずしも出家をする必要はない。前述したように、宗教と哲学、自力と他力、知性と霊性のバランスが大事である。共に切磋琢磨していってほしい。

 ことにふれて述べたように、五烏大明神は「不死鳥」である。それはエジプトのフェニックスや中国の鳳凰、インドのガルーダ、マヤのケツァルコアトルにも対比されるべきものである。五烏神は、この宇宙そのものであり、その世界は四劫輪廻しているのであって、たとえ滅びても時が来れば必ず「黄なる風を生じ」て復活する。フェニックスがその寿命を迎えても、火の中からよみがえるように。そしてそのうちで生きる我々すべての衆生も、四有輪廻によって永久に生まれ変わり死に変わりして転生する。シャンカラについて前述したように、我々の真の自己というものは、決して壊たれることのない不死の存在である。すなわち我々は、不死鳥のうちで生きる不死鳥なのである。我々自身も神の一部なのであって、神の魂魄というイデアを分有する不死鳥である。我々はいわば「小烏の仔烏」であり、五烏神という不死鳥が広げる翼の羽の一本一本なのである。それゆえ、五烏神と一如すべく、常に慎み敬い、神と共に翼を広げて大空を羽ばたいていこうではないか。

 先の真乗の聖訓である。

「心暗き時は遇うところ悉く禍なり。眼明らかなる時は道にふれてみな宝なり。心の中に乱れ発らん時は必ず讃題を念ずべし。

 月の清浄なるが如く自心も無垢なり。月の円満なるが如く自心も欠くることなし。月の潔白なるが如く自心も白法なり。」

 ここでは真乗は、詩的に「一如」の思想を表現しているのである。

 またアントニオ猪木の言葉を送ろう。

「この道を行けば、どうなるものか。危ぶむなかれ。危ぶめば道はなし。踏み出せば、その一足が道となり、その一足が道となる。迷わず行けよ、行けばわかるさ。」

 この世界、すべての生きとし生けるものは一つである。なぜなら、すべては神から流れ出したものであるから。たとえば、ドミノ倒しは始まりに板を倒す存在がある。そのように、宇宙とすべての衆生は一体である。それゆえ、すべての存在に慈しみの心が起きるのである。

 我々の内奥には仏性がある。それは神との絆であり、救いへの道しるべである。あなたはその宝を携えて、尊い烏我一如の道を歩むべし。