五烏武士道
五烏武士道と言ふは、神の為に死ぬ事と見付けたり
『葉隠』は衝撃的な書である。わたしは著者の山本常朝を「霊父」、精神的な父と仰いでいる。葉隠は一見すると過激な危険思想ともとれる。けれども、彼の真意が分かればこれほど力強い書もないであろう。奇しくもこの書は、五烏社ノ地主によって五烏経が書かれた時代とほぼ同時期である。わたしは本書において、鬼気迫る葉隠的武士道と西洋の信仰に根差した騎士道の融合を図る。願わくは、神と父の御法があまねく行き渡らんことを。
武士道は死狂ひ也
そもそも、葉隠が伝える思想は煩瑣な哲学ではない。それは分別や小細工を無用とする潔い気概である。霊父はしきりに戦国の気風を伝えようとする。そこには慈悲や情けなどない、斬るか斬られるかの無情で無慈悲な世界である。けれども、わたしはそれを中和しようとは思わない。それをしてしまうと、霊父の教えの真髄が伝わらなくなって軟弱な武士道になってしまうからである。とはいえ、現代で斬り合い殺し合い、暴力などをしてしまえば刑務所行きである。それゆえ、わたしはこの教えを現代人の漠然とした不安や恐怖心、なかんずくそれの最たる症状であるパニック障害に対する対処法として提示したい。葉隠は劇薬であるため、これはいわばショック療法である。なにしろ、パニック障害は今にも死ぬような思いをするから、それに毒をもって毒を制すというわけである。わたしは葉隠を読んで、まさしく青天の霹靂であった。どうせ死ぬのなら何を恐れることがあろうか。死の覚悟、腹が据わると恐れ知らずになる。ほとんどのことがくだらない小さなつまらないものに思えてくる。なんでもこい、かかってこいや!というような闘志がみなぎってくる。ゲームでいえばマリオの無敵状態になるのである。自分を過度に大事に思っていたらかえって苦しむ。自分を可愛がらないところに逆説的に平穏がある。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」というがこれは真理である。葉隠の奉公論や処世術、身だしなみなどについてははっきり言って不要である。肝心なところだけ押さえておけばよい。「死狂ひ」、死の覚悟を持ったとき、人の恐れや不安はたちまち氷解する。いつ死んでよいという悟りが人を強くする。しかしそれには、この世で自らの力で成し遂げたことがあるかないかが問題点となる。そのために、いにしえの武士たちは武功を立てることに執念を燃やしたのであるから。
霊父、常朝はこう述べる。
「生か死かいずれか一つを選ぶとき、まず死をとることである。それ以上の意味はない。覚悟してただ突き進むのみである。」
彼の主君、鍋島直茂公の言葉である。
「武士道とは死物狂いそのものである。死物狂いになっている武士は、ただの一人でも、数十人が寄ってたかってもこれを殺すことが難しい。」
武士道は死狂ひ也
「武士道においては、死物狂いだけがあるのだ。この中にこそ忠と孝は自然にふくまれていると思えばよい。」
次のような気迫があれば恐れるものはないであろう。
「武勇のためには、怨霊にも悪鬼にもなってやるぞと、人なみはずれたふてぶてしさを心に持てば、首が落ちても、死ぬはずはない。」
まず神の死と人の死を比較してみよう。死せる神、五烏大明神は本来は形而上の不死の存在であった。しかれども、我々衆生を憐れむ慈悲の御心から、あえて朽ちゆく肉体を持たれて現象界に顕現された。すなわち、神の死の覚悟は生きとし生けるものを救わんとされる衆生済度の御心に基づくものである。神は自分が死んでも我々を守りたかった。そのように我々は自分よりも守りたいものがあるだろうか。死の定めを選択してでも衆生済度、まさに究極の自己犠牲である。なお、これはキリストが受肉して十字架にかかり、人類の身代わりとなったこととも軌を一にする。一方で人の死は、凡夫にとっては究極的な恐怖そのものでしかないが、大悟徹底した者にとっては勇気と無畏の心をもたらす。というのは、必ず死ぬとわかっているのなら何も怖くはないからである。必ず死ぬが故に何も怖くはない。死の覚悟を持つことによって我々は恐れ知らずになる。いつも死身になっておれば苦しみも恐れもない。生きようとすれば、かえって死に近づく。あらかじめ自己が死ぬことによって神のうちに生きること、これが烏我一如の金剛身の境地である。神は波旬がもたらした死をも善用され、勇気という美徳に変えられた。これこそ尊い思し召しにほかならない。神は臆病という病気を治癒される。思し召し信仰で忍耐し、死狂ひの覚悟で何事にも立ち向かっていける。神は不死鳥、人は決死鳥である。西洋にも「メメント・モリ(死を想え)」という言葉があるが共通する観念である。また、死を見つめることによって生のかけがえのなさを見出すハイデガーの哲学ともである。神のために戦い、死した信仰者は天国が約束されているというイスラムの戦士や、ヴァルハラで歓待を受けるヴァイキングの戦士とも軌を一にする。五烏教においては、天の門の向こうの五烏浄土がそれを保証する。神は人のために死に、人は神のために死ぬ。思し召し>死狂ひ>五烏浄土の三段構えの保証をする。生を思うことで死に近づき、死を思うことでかえって生を得る。地上にこだわることで冥土に近づき、天上を願うことでかえって地上に留まる。しかれども、わたしは何の報酬も見返りもなく神のために死ぬ覚悟である。
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『騎士道』の著者レオン・ゴーティエは騎士の第一の戒律をこう伝える。
「騎士は信仰の中に、信仰のために死なねばならない」
またある詩はこう詠む。
うつしよの騎士たちよ、汝らは憂いなく生きる事能わず、汝らが守護すべき民と、信仰の中の死の務めを心に懸くなれば。
ある騎士の祈り。
「おお神よ、我らの魂はすぐに御許で再び見えます。そして諸君、我らの身体は異教徒らと共に朽ち果てようではないか。」
そして彼は突撃した。すべての騎士たちと共に、死へと向かって。そう、殉教へと向かって! こうした粗暴な騎士たちの信仰心は、極めて直球的で、女々しさの欠片もない。半端さも、弱々しさも存在しない。
イスラム教徒に捕えられたバイエルン王オリはこう叫ぶ。
「我が王、我が神を裏切れなどとは笑止なり!」
そして彼は異教徒たちになぶり殺しにされた。
以上が騎士道の第一の戒律であり、この戒律を地上で守ったものは、天国において絶対的名誉と共に聖なる花の芳香に包まれ報われるのである。
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わたしもこのオリ王のように、踏み絵を踏まされそうになったことがある。金と地位をぶら下げられて本尊を変えるように誘惑されたが、わたしは毅然として断った。神を裏切らなかったことに、わたしは強い誇りと自負心を持っている。わたしはたとえ形式的であっても踏み絵を踏むようなことはしない。
小烏は騎士道と非常に相性がよい。それは五烏大明神とキリストが似通っているからかもしれない。葉隠も神仏を一応は語るが霊父は出家したとはいえ、そこまで篤い信仰心はない。ここにわたしとの乖離が存する。
剣豪・宮本武蔵は独行道という教訓の一つにこう加える。
「仏神は尊し、仏神を頼まず」
五烏教は武士道部門においては神にすがるようなことはしない。むしろ我々が神を守る側に回る。ヨーロッパの騎士のように愚直に神を信じ敵にも己にも打ち勝つ。
霊父が立てた四誓願は次のようなものである。
一、武士道において絶対におくれをとらないこと
一、主君のお役に立つこと
一、親に孝行すること
一、大慈悲心を起こし、人のためになること
霊父にとっては鍋島家こそが主君であったが、我ら五烏武者にとっては神こそが主君にほかならない。神は人のために死なれた。人はその御恩に報いる。彼も言う通り、その中にこそ「忠も孝」も含まれている。また先に触れたように、騎士道にも「騎士の十戒」というものがあるが、第一の戒律以外は詳しくは省略する。そこからわたしは五烏武者の五戒を定める。すなわち、必戦闘戒・不退転戒・必守護戒・不背信戒・必殉教戒というものである。
必戦闘戒とは、文字通り戦うことである。戦わずに負けることは「犬死」とされる。戦わず負けること、すなわち不戦敗こそが恥なのであって、たとえ負けても戦いに挑んだならば恥ではない。卑怯な手を使わず正々堂々と戦うこと、これが五烏武士道である。まず我武者羅に一所懸命に戦う。勝てずともやるだけやったなら悔いはないであろう。
不退転戒とは、決して降参しないことである。プロレス流に言うならば、絶対にギブアップしないこと。
必守護戒とは、弱きを助け守ることである。わが五烏大明神のように。
不背信戒とは、既存の戒律を守り、信仰を捨てないことである。
必殉教戒とは、決して踏み絵を踏まないことである。決して神を裏切ってはならない。
「我が王、我が神を裏切れなどとは笑止なり!」
我々には恐れるものは何ひとつない。なぜなら、必ず死ぬ定めだからである。たとえば、カゲロウがたった一日しか飛べなくとも必死で生きるように。そのように、我々の生も儚いものである。それゆえ、我々には生死を超えた不動心が宿る。
不死鳥は 衆生を守る 命捨て 選ばれし民 御恩に報いん
神の武士 死に物狂い 裏切らず 西方の騎士 模範とぞせよ
死の覚悟 命かけるは 己が神 守るべきもの 汝なりけり
「我が王、我が神を裏切れなどとは笑止なり!」
笑止なり 我が守り神 裏切れと 救い誓いし 烏の王を
五烏武士道と言ふは、神の為に死ぬ事と見付けたり
令和七巳年師走下旬 小烏のドン・キホーテ 高河慧佑 謹言
参考文献
『葉隠』山本常朝・奈良本辰也/中央公論社
『騎士道』レオン・ゴーティエ/中央公論新社
『五輪書』宮本武蔵・佐藤正英/ちくま学芸文庫
