独眼竜・白井素行

 

周防の独眼竜・白井小介

 

儒学者、兵法家

竜騎士、スナイパー、軍師

南奇兵隊軍監、従五位

 

小烏の境内にあるオベリスクの撰文

 

五烏社厳嶋神所使令五彩烏也

神駕五烏至伊保庄

安之烏病死

神埋之因建社

霊異 白井素行撰

 

五烏社は厳島神の使令する五彩烏なり

神、五烏に駕して伊保庄に至る

これを安んずるに烏病みて死す

神、これを埋め、因りて社を建つ

霊異あり 白井素行撰

長州の山本勘助

 この方がいたからこそ小烏の伝説、五烏経が残ったと言っても過言ではない。39歳で鉄砲の暴発で右眼を失うが戊辰戦争では八咫烏に導かれ、後にフェニックスの召喚士となった。よく長州藩士はクレイジーと言われる。まさに葉隠の死狂ひである。

 願掛けした彼に神は右眼を取り戻してはくれなかったが、戦場の大局を見る千里眼と後世に残すべきものを見分ける審美眼を与えられた。彼は隻眼となった代わりに心眼を獲得したのである。

 縦横無尽に活躍した文武両道の英傑、自分はやや文に全振り、偉大な先人たちが守った国に恥ずかしくない人間になれているだろうか。最後まで死狂ひで戦う。片目を失っても立ち上がった臥龍のように。

 

泣いて馬謖を斬る

 僕が生まれる前にお孫様が残された資料によれば、小介は北陸での戦いで発生した難民に食糧を提供したほか、奇兵隊の脱走兵の処刑に苦悩したそうである。生来、小介は無欲で名利に頓着せず、山縣有朋が新政府の役職を用意しても、脱走兵の斬首に心を痛められて栄達を望まなかった。そして、平生町宇佐木に飯山塾を開いて、もっぱら郷党の師弟を指導し、塾生は十五人ほどであった。晩年は物質的には貧しくとも、心豊かに余生を送り77歳の天寿を全うしたという。ヒューマニストで温和な小男、酒好きだが酒癖は悪くはなかったという彼の素顔を知る子孫の方の貴重な記録である。僕はこんなにかっこいい人が小烏に関わってくれて本当にありがたい。地味だけれども本物のかっこよさがある。きっと神様も彼を選ばれたのだろう。なむこがらす

令和5年9月12日 小烏神社境内に立つ二柱の注連石(オベリスク)

五烏社厳嶋神所使令五彩烏也神駕五烏 至伊保庄安之烏病死神埋之因建社霊異 白井素行撰

黒島下の郷土史家・尾川恒祐の記述

 

注連石刻字について

白井先生は阿月浦家の儒臣で、克己堂学頭を勤められた方で文政9年(1826)、萩の儒者・白井弥蔵の嫡男として生れ名を小助、諱を素行、後成長して阿月浦家に仕え青木に住し、物頭となり南奇兵隊編成するや総督となり、明治維新には北陸に出勤し官軍参謀、軍政部長として智略縦横の手腕を揮った人で、北陸の人からその人柄を慕はれたと言います。明治5年(1872)、平生町宇佐木に住し郷党を育成し、明治35年(1902)、77才で他界されました。従五位、現在田布呂木峠頂上付近西側道路路傍に顕彰碑が建っています。

平成30年6月28日 田布路木〜平生の峠にある山縣有朋による顕彰碑にて

平成30年6月24日 田布施町・石城山にて 白井総督による第二奇兵隊の練兵場跡

平成29年12月30日 隻眼の竜騎士が南奇兵隊を結成した地 光市・室積の象鼻ヶ岬